2008.11.24.
今日は、予定を変えて、ANK療法に出会う前の話を書かせてください。
3歳のとき、白血病の疑いがかかり、首のリンパが物凄く腫れて、このままでは命が危ない、とりあえず、腫れをとらないと、ということになりました。 子供の首の手術ですから危険きわまりないのですが、確かに、腫れというより、巨大な瘤のようになっていたのを覚えています。 結局、手術はしなかったのですが、白血球が多い、怪我をすると、いつまでも血がさらさら流れている、鼻血が始まると、2-3週間止まらないこともある、、、、 何かと異常続きでした。 そういうこともあったのでしょうが、モダンメディシンとか、メディカルトリビューンなど、医学雑誌の翻訳をしょっちゅう読んでいました。どうやって文字を覚えたのか記憶はないのですが、幼稚園の頃には店番をしながら(実家は本屋です)、自分で書いたメモをみて、注文の取次ぎなどをやっており、漢字だらけの本を見ていたのです。
小学校のとき、従兄弟が白血病で亡くなりました。広島の二世だったのです。
私も、母が岡山で被爆者の看護をしていたそうなので、私の血液の具合がどうも普通でないことは、ずっと気にしていたようです。 一番、仲がよかった従兄弟が世を去り、自分はこの病気を治す方法をみつける、と、心に決めたのでした。そのことはずっと忘れていたのですが、ANK療法とかかわったとき、そういえば、、、 と、思い出したのです。
大学では、細胞生理学というのを専攻しようと考えていました。細胞骨格といいまして、細胞の中の構造体の研究をしようと、マウスの子供の尻尾の静脈に針を刺して、微小管という器官をつくる蛋白質チューブリンに対するモノクローナル抗体をつくったりしていたのですが、訳あって、就職することに決め、そのうち流行になるだろうと考えていた分子遺伝学をかじってから、大学を出ました。
1984年、三菱商事という会社に入ったのですが、担当は医薬品、それもバイオテクノロジー関連のものが中心でした。 商社と医薬品というのはピンとこなかったのですが、当時、IMS統計という医薬品業界の定番の統計で、国内売上トップ100品目のうち、30品目までが、三菱商事がライセンスもしくは、ライセンスを仲介した商品でした。 このライセンスビジネスというのは、なかなか理解されず、説明するのが面倒なのです。 医薬品メーカーの最大の仕事は、医薬品の製造承認という政府の許認可をとりつけることと、後は、販売することですが、この許認可を取るのに必要なデータと、付随する全てのパッケージを、医薬品メーカーに売るのが仕事でした。 バルクとか医薬品原末(ゲンマツ)というのですが、医薬品の有効成分あるいは、医薬品原料の取引も活発にやっていました。
もちろん、業務上、知り得た所謂、トレードシークレットに属することをブログで書くつもりは全くありませんし、かつて勤めていた会社を賞賛することも、誹謗することも一切しないつもりですが、古くからある医薬品、新しいテクノロジー、開発中でドロップしたもの、色んなケースをみてきました。 がん治療を考える上で、重要なことは書いていこうと考えております。 まあ、ブログですので、少々、脱線していても、適当にエピソードを混ぜていくつもりです。
入社した1984年というのは、米国NIHにおいて、ローゼンバーグ博士が、LAK療法の開発に着手した年です。 大学時代の同僚がインターロイキン2のクローニングに取り組み(下っ端として、実際に手を動かす作業をした、ということですが)、世界で初めて成功したとかいう話もありました。恐らく、世界で最初と考えられる候補が、何百人かいるのでしょう。 誰が一番というのは、どうでもいいことなのですが、インターロイキン2を、遺伝子工学により、量産できるようになったことが、免疫細胞療法の本格開発を可能にしました。
当時、LAK療法については、盛んに報道されていましたが、医薬品メーカーは殆ど関心を示さなかったですね。 まあ、関心はあるのですが、ビジネスモデルが合わないのです。 ANK療法に限らず、免疫細胞療法について、医薬品メーカーが中々のってこないのは、有効性がどうこうという次元の話ではなく、「大量生産された製品を流通させる」のが仕事の医薬品メーカーにとって、患者一人ひとりの細胞を、手をかけ、個別に培養し、患者本人に戻す、というプロセスは、医師とか、医療機関の仕事でしょう、自分達がやる仕事の領域外だということになるのです。 薬事法上の枠組みからいっても、医薬品メーカーの商流や、収益構造、財務モデルからいっても、合わないのです。 また、製造責任についても、規格化された量産品については、とことん工程を検証し、品質管理を徹底することで対応するのですが、患者一人ひとり、全然、異なる状態に対応するのは、過去のデータに基く判断ではあてになりませんから、大組織では無理で、医師の判断・裁量に委ねるべきもの、と、彼らは考えるのです。 がん患者が助かるかどうか、という、人の命がかかっていることに、ビジネスモデルが合う合わないは、関係ないだろう、と、思われるかもしれませんが、医薬品業界には長い歴史があり、行動原理とか、物の考え方や見方が、ある枠の中に納まってますので、自分達の枠組みの外にあるものには、なかなか手を出さないのです。 医薬品メーカーは、品質管理とか、安全管理については、徹底して慎重かつ、保守的であるべき、というのは当然でしょう。 ところが、会社の体質全体も、そうなってしまうのです。 これは文句をいってもしょうがないので、医療機関ないし、ベンチャー企業が頑張るしかないのです。
さて、1984年と言うと、米国バイオベンチャー、ジェネンテック社が日本の医薬品業界や、一般メディアにも華々しく紹介された年です。 医薬品ビジネスに関しては遅れていた三井物産が、バイオ分野ではスタートダッシュをかけ、ジェネンテック社の総代理店として、「これからは、バイオテクノロジーの時代がくる」と、喧伝したのです。 日本の医薬品メーカーにも、これからはバイオですよ、と啓蒙活動を始めたのです。 方々で、バイオセミナーが開催され、今すでに儲かってるのは、セミナー屋と日経バイオ誌だけと言われておりました。
また、この年は、米国NCI(国立がん研究所ウィルス部長)のロバート・C・ガロ(ギャロと発音してますが)と、仏パスツール研究所のモンターニエ博士(モンターニュと聞こえますけど)とが、どち
らが先にエイズウィルスを発見したかで、大揉めに揉め、両国の大統領が仲介に入るという騒動でした。 ガロ博士がエイズウィルスの構造特許を出願してしまったので、誰が診断薬を開発しようが、あるいは医薬品を開発しようが、ウィルスの構造に関する知見なくして無理である、ということで、莫大な特許使用料がガロ博士個人の懐に入るのです。 米国では、国家の予算を使って基礎研究を行います。日本のように、民間企業が自分の資金で基礎研究をする、ということは滅多にありません。 しかも成果を実施することで得られる利益は、個人の懐に入るのです。 結果、特許権は、ガロ博士とモンターニエ博士が、半分ずつ分けるという事で妥協が成立しました。どちらが先に発見という話は棚上げされ、特許権の持分を山分けとなったのです。 当時、数十億円レベルの特許使用料収入があったと推測されていました。 実際のウィルスの同定は1983年に行われたのですが、HIVというウィルスの正式名が制定されたのが1984年です。 あれから24年。 今年、2008年のノーベル医学賞は、モンターニエ博士と、その同僚の受賞となり、ガロ博士との先陣争いはフランス側の勝利で決着している、という見方になっています。
バイオテクノロジーが、新しい医薬品や治療法をもたらし、殆どの病気が治るようになる、という期待と、遺伝子を操作されたモンスターが現われ、人類に大きな災いをもたらす、という警鐘もまた鳴らされ、丁度、エイズの本格出現と時期が重なり、これからどうなっていくのか、世界が注目を始めた、1984年はそういう年でした。
その後、米国を中心に2000社以上のバイオベンチャーとコンタクトし(実際に訪問したのは、その一部に過ぎませんが)、どういう「話」が、ものになっていくのか、或いは駄目になっていくのか、一通り、見てまいりました。 発ガン遺伝子(オンコジーン)、遺伝子治療、モノクローナル抗体を使ったミサイル療法、がんワクチン、あるいは、伝統的な化学療法剤、腫瘍マーカーの開発、などなど、一通りのバイオ分野の歴史を駆け抜けてまいりましたので、テーマ毎に、「結局、どうなのか」と、総括をしていこうと考えております。