平22.2.22.
2が並ぶ日でした。
今日は、聖徳太子の命日です。
聖徳太子が生涯、師と仰いだ高僧 恵慈もまた、
太子没後、丁度1年経った2月22日に
息を引き取りました。
聖徳太子は豪族が跋扈する群雄割拠の状況から
国を一つにまとめた、とされています。
日本史だけを見ているとピンときませんが、
世界史として日本史をみると、何故、
日本で事件が起こったのか、一つひとつの
背景が見えてきます。
この時代、正に、世界の基盤が
ひっくり返る激動の時です。
小野妹子を遣隋使として派遣した年、
翌年という説もありますが、モハメッドが
神託を受けます。
ほどなく、ジハドが宣され、
アッバース朝が、燎原の火の如く、
世界に広がります。
中東・中近東、東アフリカ、北アフリカ
ヨーロッパ西部、中央アジア、インド、東南アジア諸国
世界の主要地域が次々とイスラム圏に組み込まれ、
今日もなお、その勢いは衰えず、21世紀半ばには
人口の過半がイスラム教徒の国には、米国やロシアも
含まれる見込みです。
1000年以上の永きに亘り、
「世界」として君臨したペルシアが終焉の時を迎えます。
その規模たるや、ローマやモンゴルどころではありません。
世界基準がひっくり返ったのです。
歴史にIFは禁物といいますが
敢えて、IFを考えてみるならば、一つ間違えれば
日本は、全く異なる状況に陥り、
今日の日本は存在しなかったでしょう。
聖徳太子の母方の祖母は、
高句麗王家を現す高麗姓
恵慈は、遠い将来を見据え、
いつか必要な時がくることを分かった
高句麗王が、日本に国創りの精神を
伝えるため、派遣したのでした。
「日出づる国の天子
書を 日没する国の天子にたくす」
普通なら、その場で、胴から首がはなれる
国書をしたため、煬帝に自ら奏上したのも
恵慈でした。 背後の高句麗の威光がなければ
無事ではすまなかったでしょう。
5年後、隋の煬帝は113万人の戦闘員と
補給部隊あわせて、200~300万と言われる
古代史最大の軍勢をおこし、高句麗へ遠征します。
この作戦は、後に書かれた歴史小説「三国志」の
中に、「赤壁の戦い」(レッドクリフの戦い)のモデルとなります。
殆ど、壊滅し、隋は程なく滅びます。
こんなことが起こっていた世界の激動の中で
聖徳太子が国を一つにする精神を顕さなければ、
一体、日本は、どうなっていたでしょう。
(実は、この時期、まだ近畿地方は「大和」であって、
「日本」は、外国だったのですが)
少し後には、唐の軍勢は、北九州にも上陸しています。
今日は具体的には書きませんが、
国の源を築いた人の命日
今と将来の日本を考える日にしても
いいのではないでしょうか。
(毎日、考えるべきですが)