2011.12.8.
本8日未明
帝国陸海軍は
西太平洋上において
米英と戦争状態に入れり
開戦を告げるアナウンスの場面は
TV番組でも時々、放映されますが
「西太平洋」と言っています。
昭和16年の今日、12月8日
日本陸軍は、西太平洋の端
英連邦領であったマレーシア半島
コタバルに対して敵前上陸を敢行します。
時差の関係で、払暁、夜明けとともに
奇襲攻撃を仕掛けたハワイ空襲よりも
数時間前、大潮の夜の満潮時を狙って
上陸作戦を敢行しました。
つまり、最初から宣戦布告前に
戦端を切る計画だったわけです。
その後、ハワイ空襲となります。
ハワイ空襲に参加した第一機動部隊の
参加者の中で、実際にお目にかかったのは
有名人の中では、航空参謀長だった源田実氏です。
といっても、ただ、ご挨拶をさせて
いただいただけです。
なぜ、徹底した反復攻撃をかけなかったのか、
などなど、他にも同氏の用兵について、とやかく批判する声も
多いのですが、さすがに、一国の命運を懸けた決戦に
おいて、主力部隊の参謀を務めた人物だけのことはあり
ただそこに立っているだけで、その場の空気が変わる
筋金の入った存在感がありました。
人数でいえば、空母瑞鶴搭乗員のご面々とは
おそらく2~3百人はいらっしゃったと思いますが、
遺族会の総会でご一緒させていただきました。
もう高齢の方が多くても(今はもう、ごく一部しか
ご存命ではないはずです)、一斉に軍歌を斉唱する際の覇気、
ご挨拶の際の言葉の力など、今日のプロスポーツ選手の
ヒーローインタビューなどとはくらべものにもならない
遥かに桁違いの迫力がありました。
米空母群を次々に撃破し、最後は艦隊型空母としては
ただ一隻、生き残っていたところ、囮部隊として
敵機動部隊の猛攻を一身に集め、比島沖に沈みます。
他の部隊を圧倒して活躍した精鋭部隊のみなさんと、
ご一緒させていただき、精鋭軍団のすさまじいエネルギーを
体感させていただいたことは、生涯忘れえぬ経験となりました。
実際に米軍と戦った戦士の方々は多くを語りませんが、
戦後、日本が米国に好き放題に翻弄され、弱い人間の集団と
化させられる現実には、複雑な思いがあると感じます。
さて、日米開戦は米国側が仕掛けたとする説は
昔からよくあり、公文書の公開によって、今や
動かぬものとなりましたが、あまり報道されない
エピソードを一つだけ紹介しておきます。
ハワイ空襲の際、米空母は各地に散っており、
日本艦隊迎撃態勢を取っているようには見えなかったのですが
一隻だけ、問題の行動をとった空母がいました。
西の瑞鶴に対し、東のエンタープライズと呼ばれた
名鑑です。 ハワイが空襲されているころ、
ハワイ近海から、急降下爆撃機を出撃させます。
たった一隻で、6隻の日本空母を相手にするのは
無理があり、撃沈は狙わず、ただ、飛行甲板を
使えなくする目的で、全機、焼夷弾を搭載していました。
たまたま、日本機の航続力が桁違いに長く
エンタープライズ隊が捜索した海域よりも
遥かに北方に日本艦隊がいたため、空振りに終わりましたが
米軍は、ハワイの戦艦を囮に使いながら、しっかりと
日本空母を焼き討ちにする算段を整えていました。