藤井真則のブログ

このブログはリンパ球バンク株式会社の社長時代に、会社社長ブログとして会社HP上に掲載されていたものです。ちょうど還暦を迎えるタイミングで社長の責を後任に譲り一時は閉鎖しておりましたが、再開を望まれる方もいらっしゃるため、別途個人ブログとして再掲載するものです。ANK療法という特定のがん治療に関しては、同法の普及のために設立されたリンパ球バンク株式会社のHPをご覧ください。
本ブログは、あまり標準的ではない特殊な治療の普及にあたり、「常識の壁」を破るために、特に分野は特定せずに書かれたものです。「常識とは、ある特定の組織・勢力の都合により強力に流布されて定着したからこそ、常識化した不真実であることが多い」という前提で書かれています。

TOP

2012年04月23日

  

えとせとら

2012.4.23.
 
 
近年、考古学が使える分析手段が
劇的に増加し、従来では考えられなかった
細部にわたるデータが取れるようになりました。
 
氷河が後退したあと、農耕地が拡大、人口増加とともに
諸民族がどこで興隆し、移動したか、相当程度、
わかるようになってきました。
 
現代的な分析が示すものは、古代からの伝承や
神話が、おおむね、事実に基くものであることを
明らかにする傾向があります。
 
さて、白人はコーカソイド、コーカサスの人と呼びますが
白人に限らず、多くの民族が、そのルーツは、コーカサス地方、
あるいはもう少し広く、黒海カスピ海周辺といわれるケースが
多いようです。
 
フィン・ウゴル、ゲルマン・ケルト、スラブ、古代エジプト、
アラム(イスラエル)、フェニキア、スキタイ、、、、
古代の名だたる主要民族は、概ね、コーカサス周辺をルーツとする
という各々の伝承があります。
 
子供のころから、なぜ、コーカサスなのか?
という疑問がありました。 第二次大戦中の
ドイツの宣伝フィルムにも、ゲルマン民族のルーツは
コーカサスであり、また、当時の政権が目の敵にした
民族のルーツもコーカサスとなっていました。
 
ヴェルサイユ条約により、再軍備を禁じられていたドイツは
友人スターリンから、戦車をプレゼントされた上、
機甲部隊と急降下爆撃機を組み合わせた空陸一体の
電撃作戦の訓練地も提供されます。
スターリンの生まれ故郷でもあり、
ドイツ指導者が切に望んだゲルマン民族の
故郷、グルジアでした。
 
ドイツ軍は、1941年、友人から送られた戦車を
先頭に、ソ連へ進行しますが、まっさきに、故郷である
グルジアを目指し、占領します、、、、、
 
 
近年、おおよそ、8千年前ころに、ユーラシア大陸の大半が
分厚い氷河におおわれていたことが明らかになってきました。
一度、大きく後退した氷河が、再び、戻ってきていたのです。
さらに、コーカサス付近には、凍らない淡水湖が存在したことも
明らかになってきました。  当然、生き残った人々が
集中して住み着いていました。  インドなど、もっと南の
地方は、氷河に覆われていなかったようですが、今日、
ユーラシア大陸に住む、多くの民族が、氷河の中にポツンと
存在する、ごく限られたオアシスのような淡水湖周辺に
集中していたと考えられるようになってきました。
 
ところが、考古学のレポートは、凍っていなかったことを
証明してみせはするのですが、なぜ、凍らなかったのかまでは
説明しませんでした。 実際に、グルジア、アルメニア、
アゼルバイジャンなどへ行ってみると、すぐに理由は
わかりました。 100万年、燃え続けた火山があるのです。
ゾロアスター教発祥とも関係しているようですが、氷河期の
間も、絶えることなく、燃え続けた火山があり、実際に
見てきましたが、ドカン!と噴火したり、ドロドロ溶岩が
流れたりするのではなく、地面のとこどころが割け、炎が
上がっているのです。炎といっても、一つ一つはキャンプファイアー
程度のもので、すぐそばまで近づけるのですが、かつては、
いたるところに火山口があったそうです。
 
なるほど、これなら、数十メートルの厚さがあったとされる
氷河が押し寄せても、火山周辺は、氷河が解けて、水源になるだけ
ということは、よくわかりました。
 
 
そして、氷河が解け、海水面が急上昇するのですが、地中海の
海水面が上昇しても、エーゲ海から先には海水が流れ込まない
状態が続きました。そして、ボスポラス、ダーダネルスの峠だった
ところを、海水が一気に溢れ、押し出て、今度は滝のように
凍らなかった淡水湖へ殺到します。どうやら、一年もかからない
短期間の間に、淡水湖は、巨大な海と化し、当時の集落の大半は
海没してしまいます。 こうして黒海が誕生し、生き残った人々の
一部は、黒海の西岸にそびえる、ベリコ・トルノボの丘へ逃げ
また、一部は、黒海の南東にそそり立つ、アララトの山々、
ツインピークスへと、逃れたようです。
 
ベリコ・トルノボは、今日のブルガリア、黒海沿岸にあります。
それほど高くはありませんが、
そこだけ、突き出るように、そびえています。
急峻な丘の斜面を実際に登ってみると、
上の方は、平らな土地が広がっており、
人々が、急場しのぎに集まるには最適の地形です。
 
ドナウ川が近くを流れ、黒海に注ぐ河口なので
海水の大洪水にあっても、淡水の水源には困らなかった
でしょう。
 
また、アララト山といえば、ノアの方舟で有名ですが
以前は、どこにあるのかも、はっきりと書いてある資料は
みつけられませんでした。今では、ごく普通に、
これがアララトの山々ですよ、と、書いてあります。
こちらは、どこからみても、ダントツに目につきます。
実際に行ってみると、アララト山なのではなく、
ツインピークスと呼ばれていますが、富士山と
キリマンジャロが並んでそびえているような感じです。
何も、この山に登ってしまうひつようはなかったでしょうが、
大洪水に際して、アララトの頂きを目指して逃げた、
というのは、実感として、よくわかりました。
 
 
 
こうして、黒海の西と東(南)に分かれた人々は、
やがて、移動と拡散をはじめ、ユーラシアの代表的な
諸民族の源となっていきます。
 
 
 
 
 
 

>>全投稿記事一覧を見る