藤井真則のブログ

このブログはリンパ球バンク株式会社の社長時代に、会社社長ブログとして会社HP上に掲載されていたものです。ちょうど還暦を迎えるタイミングで社長の責を後任に譲り一時は閉鎖しておりましたが、再開を望まれる方もいらっしゃるため、別途個人ブログとして再掲載するものです。ANK療法という特定のがん治療に関しては、同法の普及のために設立されたリンパ球バンク株式会社のHPをご覧ください。
本ブログは、あまり標準的ではない特殊な治療の普及にあたり、「常識の壁」を破るために、特に分野は特定せずに書かれたものです。「常識とは、ある特定の組織・勢力の都合により強力に流布されて定着したからこそ、常識化した不真実であることが多い」という前提で書かれています。

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2012年06月16日

  

えとせとら

2012.6.16.

今日の人類の主要諸民族のルーツが原型をかためた時代

8000~6500年前

この間の考古学的なデータについては
一部地域に関しては洪水状態であふれはじめ
整理をして一般向けに告知していくのは追いつかない状況です。

ところが、気候や植生などの環境や、食べていた物などは
詳細までわかっても、心理状態とか、精神活動となると
「何やら儀式をしていたらしい、、、」
「死者をこんな風に埋葬している、、、、」

といったことはわかっても、今一、実態がわかりません。

この人類史シリーズの冒頭でも
ウォーレスの進化論を紹介しています。
生命の進化を選択淘汰による適者生存によって
説明する進化論をまとめたウォーレスは
悲しいかな、平民であったために、学会で
発表する権利を与えられていません。
そこで、特権をもつ貴族の中から
チャールズダーウィン卿を選び
自説「種の起源」を共同で発表することを
依頼しました。
ところが、ウォーレスは自説の限界に気づきます。
人間には精神があるが、進化論では精神の発生を
全く説明できない、進化論は誤っているので
発表してはいけない、とダーウィン卿に伝えました。
ところが、ダーウィン卿は今更、何を言うか、と
ウォーレスの名前を消し、世にいう「ダーウィンの進化論」
として発表してしまったのです。

科学といっても、様々なものがあるのですが
今日の古典的な科学は、「観測してナンボ」です。
観測できない精神は、科学的研究の対象にできません。
「古代人の精神」となると、全く手が出せないわけです。

ヨーロッパでは、科学よりも、神話から古代人の心理を
読み解く手法が一般的です。 日本では、神話なんて、
おとぎ話の類くらいに片づけてしまいますが、ヨーロッパでは
神話とは、今日の私たちの深層に今も生きる真実であると
考えます。 最近、何作も続けて映画化される「タイタンの物語」の
類が、その通りそのまま事実であったかどうかなどは、誰も真剣に
議論はしませんが、人の心理をつくりあげた要素やプロセスが
そこで語られている、と考えられています。

たとえば、日本では、エジプトのピラミッドは

「何の目的でつくられたのか」
と問うわけです。

ヨーロッパでは、

「当時の人々には、目的意識は存在しなかった」
となります。

(もちろん、諸説あり、そもそも、

学問に関心ない人もたくさんいるのは
当然です)

 

現代人の意識で、古代の創作物を観てしまうと、なんでこんなもん
つくったのか、と訳が分からなくなります。

ところが、古代人には、現代人が
いうところの意識は存在しなかった、となるのです。

意識が存在しない人間の
心理をどう考えるか、となると、

もう現代人の意識ではパニックになりますが
結論だけいうと、ピラミッドをつくった人々は、

ただつくったのであって、
何のため、なんて、考えていなかった、

ということになります。

この問題は面倒なので、今回は深堀しませんが、

世界宗教、ユダヤ教やキリスト教には、
「個人の救済」という概念は存在しません。

人は死んだらどうなるのか?
この問いに対し、聖書には何も書かれていません。

世界宗教は「民族の救済」を
テーマにしているのであって、

個々人が死んだらどうなるか、など、何の関心も
払っていないのです。

「あの世」については、何の記述もないです。
この世に出現する天国で、

祝福されし者は永遠の生命を得る、とあるのです。
今、死んだ人は、じゃ、どうなるのか、、、

「知らない」 それが聖書の回答です。
将来の子孫が、この世で栄耀栄華を誇る日がくるまで、

自分たちは、ただひたすら
民族救済を求め、黙々と生き続け、

死んでいき、そして、自分自身には、何の報いも
ないのです。

 

こういうのが、世界宗教として定着してきたわけですから、
現代人の、自分が生きてる間の自分の幸福、

という考え方は、全く古代人とは
相容れないものですので、

古代人が何をどう考えていたか、そんな研究をするには
日常的な現代人の意識を棚にあげないと、

なんにもわからない、ということになります。

私自身は、世界の古代文明揺籃の地を訪ね歩いて、

なんでここまで!!
生きている生身の人間を生贄にささげるなど、到底、認められない!
それが公然と、そしておそらく世界中で行われていたらしい、
ここが理解できない、むしろ、憤りを覚えるのです。
ところが、そうした地では神聖な空間の佇まいを体験するわけです。
とんでもないギャップがあるのです。

南米のピラミッドの基礎部分に埋められている

何百もの少女のミイラを
みていると、なんでやねん!?

と疑問はわくのですが、達観した方々は
こうおっしゃいます。

「当時の人に、個人なんて意識はないんだから、と。
何の疑問もなく、ただ、生贄になったんですよ。」

というのです。

学問的にどういう風に、整理されているのかは、

ある程度、みえてきたのですが
でも、やっぱり人間として、

人類文明の基礎設計の中に、美しい生命の犠牲が
組み込まれた、というのは、

到底、許しがたいものがあります。

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