藤井真則のブログ

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2012年07月19日

  

えとせとら

2012.7.19.

NHK「大英博物館シリーズ第三弾」日本の巨大古墳モノは
残念ながら、見過ごしました。

仁徳天皇陵をお題目にあげていましたが
あれ、一応、世界最大の古墳です。
もちろん、面積でいえば、ということですが。

仁徳天皇陵は、大阪ナニワと、「泉」の境にある
堺に近いところですが、そこから少し
山際へ近づいた藤井寺・羽曳野丘陵一帯には
日本最大級の古墳群がゴロゴロしています。
辺りには、聖徳太子生誕の地、推古天皇陵
小野妹子のお墓をはじめ、2万年前から
古代世界に広く石器を供給していた
二上山があります。

日本の正史の冒頭に
「豊葦原の中津国」とありますが
日本は、今でも国土の8割が山に囲まれ
古代は、今日の大平野がまだ海か荒地だったのですから
日本という国のことを、豊葦原というのは
大変、違和感があります。

ところが、大阪をはじめ、出雲の宍道湖周辺、
青森の十三湖などは、古代、大変に重要な拠点で
そこには、豊かな芦原が広がっていました。
人間は、考える葦である、という有名な言葉ありますが
古代文明と葦には深い関係があります。

「鉄が取れる」からです。

大阪はかつて日本を代表する古代鉄の産地でした。

5世紀頃、今日の大阪市は大半が海でした。
天満・渡邊を北端とし、上町筋にそって
四天王寺を付け根とする突堤のような上町台地は
陸地でしたが、その西は大阪湾、東には、広大な
河内湖が広がっていました。

上町台地は、古代史の名所が目白押しです。
ナニワの都、古代最大の方円坂巨大倉庫群、日本三大名橋のひとつ
高麗橋(こまばし、と読みました、ナニワの都と高句麗館(大使館のようなもの)を
つなぐ橋でした)、百済館(今日も同じ地名のままで、公園になっていますが、中大江にあり、
この百済迎賓館の中で生まれたとされる皇子は、地名をとって中大兄皇子と
よばれました)、仁徳天皇の御所であった高津神社、四天王寺、古代最大の銅精錬所、
時代はずいぶん後になりますが阿部清明生誕の地がある阿倍野、、、、

河内湖、宍道湖、十三湖、いずれも巨大な汽水湖です。

宍道湖と十三湖はシジミが有名ですが、河内湖のなれの果てである
大運河、新淀川でも、シジミはとれます。誰も食べようとはしませんが。

汽水湖では、シジミが、なんぼでも摂れるのです。
シジミは何を餌にしているのか。
実は、生き物ではないのです。
汽水湖で化学合成されるシステインなどの
「合成アミノ酸」をしこたま食べて大量発生するのです。
シジミ汁特有の香りであるL-オルニチンの生成には
システインに含まれる硫黄が欠かせません。
汽水湖は、山のように取れ続けるシジミのおかげで、
「食うには困らない」聖地となるのです。

汽水湖というのは、底には重い海水、上部は軽い淡水で
両者は比重の違いから、なかなか混じりません。
結果的に、底部は酸欠になっています。
酸化層と、酸欠状態の還元層(酸素を奪い取る)という
天然の化学反応漕になっているのです。

山を削って、大量の金属を含む土砂を運んできた大河川。
土砂は、細かい粒子となって、互いに電気的に反発しあって
ドロドロと水に浮いたコロイド状態として、下流まで運ばれてきます。
これが、ミネラル豊富な海水と接触すると、海水中のイオンが
コロイド粒子の電荷を消してしまい、電気的な反発力を失った
粒子は、ドカドカッと沈降し、広大な砂浜や堆積平野、河の中州などを
つくります。 緩やかな広大な河口付近において、河と海の境に
突堤ができるか、元々、島があって、周辺に土砂の堆積が進んだりすると、
河側は汽水湖となっていきます。

葦という植物は、根っこが海水につかった泥でも平気で生え、
茎の上部は淡水層を突き抜け、水面上に伸びていきます。
この環境にライバルはめったにいないため、葦の天下となり
豊葦原となっていきます。

一方、河によって運ばれてきた金属酸化物(つまり水アカ)は
水流が弱くなることによっても、沈降を始めますが、更に
海水の作用によって、完全に沈んでいきます。
海水層へ落ち込むと、そこは酸欠の還元層であり
金属酸化物は、酸素を放出して、金属になります。
その際、葦の茎の表面のシリコンの棘のような構造が
結晶の種のような機能を果たし、葦の茎から、金属の塊が
析出していきます。
ラッパ状に広がってから、先端部はまあるく巻き込むようになり
そして、ラッパの内部に、コロコロ、玉のような金属塊が育ち
丁度、鈴の音のすずのようなものができあがります。
というより、この金属塊を「スズ」と呼ぶのです。
大きなものは数十センチ以上になります。
ぶら下げると、音がするものもあります。
成分の多くは、金属錫です。
スズだから、錫(スズ)というのか、錫が多いからスズなのかは
知りませんが、スズには、他に鉄、銅、金、銀、水銀など貴重な
重金属が混ざっています。
これを精製して、様々な重金属を精錬していったのです。
スズが早く育つようにするには、振動を与えるという手があります。
そこで、銅鐸をつくり、カンカン鳴らして、析出を速めようとしたようです。

教科書には、銅鐸というのは、何のために使うものなのか全くわからん、
と書いてありますが、意味もなく、分けのわからないものを大量につくるほど
古代人はヒマでもバカでもありません。 錫と同を混ぜて青銅にし、
銅鐸をつくり、それをカンカン叩いて、もっと大量のスズを集めた
ということのようです。(もちろん、誰も覚えていない昔の話ですから、
事実のかけらに基く推測を土台とすることは、ご容赦ください)

大阪では、数多の島や洲があり、軍馬を放牧していたようです。
確かに、これなら、そうそう、逃げ出しませんね、、、
上町台地の巨大な突堤の北端、渡邊の浜や、海側の「江」は
商業港として栄えました。
フェニキアの港も、多くが汽水湖に作られましたが
やはり、海側には商船が集まり、淡水側には軍船が
係留されていました。

ちなみに、中津国の「津」は
河川中にできた港という意味です。
今日の大阪駅がある梅田界隈から、
新淀川を渡った「十三(じゅうそう)」
直径数キロにも及ぶ一帯全体が、中津と
呼ばれていました。

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