2012.8.1.
オリンピック精神にもとる、とか、
IOCの理念に反するとか、
そういう言い方がされ、
今回も、差別発言があったと
本番目前に出場停止になった選手が
出てしまいました。
オリンピックというと、
「アマチュアが原則」でした。
最近は、プロでも参加していますが
相当、物議をかもしました。
なぜ、オリンピックは、プロ参加を
認めないとしてきたのでしょうか。
最近の古代。
このブログ、近頃、5~8千年前の
話がメインでしたので、
オリンピアの競技は、
かなり最近の時代という感じになります。
最初は、単純に、直線を走るだけでした。
審判の誤審とか、判定を巡る騒動というのは
ありません。
審判はいないのですから。
評価点も何もなし。
ただ、一着でゴール。
それ以外は無意味。
完全に同着ならどうか?
それはしりませんが
人の評価など入り込む余地のない
単純明快な競技でした。
ちなみに選手は全裸です。
身に何かまとうなど、
そんな失礼なことは
ありえなかったのです。
別に肉体美をみせびらかせる、
といった意味でやったわけではなく
(少なくとも初期のころは)
「観る」とか「観られる」といった
意識など、余計だったのです。
このあたりは、現代人と古代人の意識の違いという
何とも、面倒な問題があるわけですが、
アダムとイヴは、「知恵の樹」の実を
食べ、善悪を知り、「観る」意識
「観られる」意識をもってしまいました。
そして、慌てて、下腹部を葉っぱで隠しました。
人は神の如き意識をもったがために
その傲慢さゆえ、エデンの園を追放され、
大地は永遠に呪われた、
とあります。
ちょっと面倒そうですから、
一旦、棚にあげましょう。
とにかく、オリンピック競技は
神々のおわします、オリンピアの山々から
神々がご覧になられるもの。
そして、神々のご加護が一番強かった者が
一位ゴールして、祝福の御印として
神宿る樹、月桂樹の葉の冠をいただいたのです。
金、銀、銅、というのはあり得なかったのです。
一位だけが意味があり、それ以外は意味はなかったのです。
二位も五位も最下位もおんなじです。
神々のご加護が足りなかった、ということなのですから。
努力した、とか、素質があったかどうか、
作戦、といっても、まっすぐ走るだけですから
とにかく、なんにも関係なし。
ただ、ご加護の強さ次第。
ギリシア時代よりももっと古代から、
神々のご意志は、何かをやった結果に顕れる
そういう考え方があります。
何せ、神様たちが決めた順位なんですから
判定に不服を言うというのは神々に逆らうことになります。
オリンピアの神々は怖いですから、下手に逆らうと
雷が落ちてきたり、何か化け物にされたり、
毎日、肝臓を食べられたりと
それは大変です。
審判の判定を巡る争いは
起こりようがなかった
初期のオリンピア競技。
では、平和だったかというと
そうでもなく、
神々は、戦ったのです。
誰の加護が強いか。
やがて、オリンピアの競技も
種目が増え、人間が観るものになり
判定が入り込み、そして、ご加護よりも
ご利益が確実な、銭でプロを雇う行為が横行します。
そして、ペロポネソス戦争の結果、プロは禁止され
オリンピックはアマチュアの競技と定められます。
(続く)