2013.8.1.
大手医薬品メーカーが開発した新薬の治験における
データ捏造事件は、巷の話題にもなっております。
私も、データをまとめて、医薬品メーカーへ
ライセンス販売する仕事をしておりましたので
「実際、どうなのか?」と、この件についての
コメントを求められます。
「迂闊なことは言えない」
後は推して量っていただきたいのですが
まあ、業界人にとっては、捏造事件というのは
「よくあること」であり、一般報道されたことも
過去、何度もあることは覚えています。
大きなインパクトがあったのは
Nケミファ事件でしょうか。
ちょっとデータをねつ造したなどという
生易しいものではなく、会社ぐるみで
組織的に、片っ端から新薬製造承認申請データを
捏造し、担当官から部長さんまで、7人一度に
しょっぴかれたので、大きなニュースになりました。
なぜ、そんなことをするのか。
何百億円、何千億円と開発資金を投じても
新薬の承認を取れれば、中には1品目で
年商1000億円ということもあります。
国内だけなら、100億売れれば
ブロックバスターですが。
何せ、他の産業とは、収益率が違います。
とにかく、新薬の承認を取れ!!!
となるわけです。
治験というのは、「患者にとって有益なもの」であることを証明するもので
あるはずなのですが、莫大な費用がかかり、その莫大な費用を
負担するスポンサーが、承認取得による莫大な収益を確保できる
事業者と同一である、という、「巨費を投じるスポンサーにとっての
有益性の証明」となり勝ちな、致命的な構造上の欠陥をもっています。
「客観的で公正であり続けることが非常に難しい構造」をもっているのです。
捏造とは違いますが、大手F薬品さんが、国立の研究機関から
データを盗み出した事件は、「日本を代表する?」産業スパイ事件として
思いっきり、大々的に報道されました。
「天下のF薬品さん、、、」と言われるほど、一時は日の出の勢いで
抗生物質をはじめ、臓器移植に不可欠な免疫抑制剤など、
次々に日本を代表する新薬を発売し、海外にもライセンスし続けていたのですが、
しばらく「天下を騒がせたF薬品の、、、」と自嘲的なご挨拶を
されるようになっておられました。
最悪の事件は、ホルモン関係の新薬の治験において
副作用を発症した患者さんが消え、その後、とんでもない
姿で発見された事件ですが
これも、一時は、週刊誌上を賑わせていました。
どんなに制度を厳しくしても、
一部の変な人がいれば、捏造事件が起こってしまう、、、
という見解もありますが。
「治験制度そのものが、捏造を生む構造をもつ」 のです。
必ず、捏造事件は起こり続けます。
ばれるかどうか、の問題です。
治験は、「有効性の証明」を目的としているからです。
これが本質的な問題なのです。
治験においては、「有効性を証明すればいいんだ」 となるのです。
病人を助ける、病気を治す、人の命を救う、、、、
医療の本来の目的 = 治験の目的 にはなっていません。
一定の基準に則り、データを集め、統計処理して、
有効性を証明すればいいのです、患者さんがどうなっても。
結果、有効性が証明され、そして患者さんの病気は治るどころか
長期的には悪化するような代物が、次々と承認されていったのです。
そして、短期的な効果証明が、長期的には患者にとって有益なものどころか
むしろ、弊害の方が多くなる、という事実が、後々になって明らかにされてきました。
治験の歴史において、効果判定基準の矛盾点が露見し、判定基準を修正することを
繰り返してきました。
何のために治験をするのか。
患者さんを救うことにつながらなければいけないのに
とにかく、有効性の証明をすればいいのであると、
目先の目的意識の塊となっていくプロセスで、
やがて手段を選ばず、有効性の証明に突っ走る人々が
でてくるのは当然です。
そして、必然の結果として、捏造が起こるのです。
これはいけない、という「反省」が行われ、
その都度、制度が「改善」され、管理基準が厳しくなってきました。
「厳密に管理された治験に基くエビデンス」これだけが
正しいと、事件を起こすたびに、むしろ神棚の高みに祭り上げられ
管理基準が厳しくなればなるほど、一部関係者以外には実態を
知られることのない密室の中で、全てが執り行われ、ますます
捏造をやりやすい状況となります。
そして、難解な用語を並べ、統計学の専門家が厳密な計算を実施することで
まず、一般人には理解不能の表現の塊となり、ちょっと冷静になれば
実に馬鹿馬鹿しいほど、いい加減な話までが、専門家が認めた
厳密な証明として、権威化されていきます。
ちなみに、抗がん剤の効果証明は、治験に参加した人が亡くなるまでの
日数を数えてデータにしているのです。
延命効果を証明すればいいのですから。
患者グループAとBとで、どっちが、少しでも「遅い目に」
亡くなるかどうか、それを数えているのです。
ここには、もはや、病気で死にたくない、という患者さんの
気持ちや願いは、微塵もありません。
実際、つい最近も、ある患者さんが、治験に参加する可能性があった
そうなのですが、抗がん剤投与後、想定外なレベルで状態がいいので、
「不適格」となられました。
余命が短い人を集めないと、最後の方が亡くなるまで、時間がかかってしまいます。
すると治験費用も嵩みます。
治験という巨大なシステムは、
莫大な資本を要求し、そして、参加する
患者、医師、医療従事者、データ取扱い関係者、メーカー
あらゆる属性の人々の個人的な考えや感情の入る余地を
徹底して排除します。
かくして、ひたすら、「有効性の証明」という名前の
患者さんの死亡日の到来へ向け、ひた走るのです。
こういう人間の心が入り込む余地のない巨大システムの中で
有効性を証明するという「強い目的意識」をもち、
かつ専門知識を有する人は、やがて、目的達成のため、
何でもするようになります。
映画「ニキータ」や、「エヴァンゲリオン」で描かれた世界です。
自分の存在をなくされ、なぜ、自分がここにいて、自分はそもそも
どういう人間なのか、考えることさえ否定され、そして、標的をヒットする
敵と戦う、といった、特定のミッションを与えられ、厳密に管理された状況の下、
基準からはずれれば「怒られる」などという生易しい罰ではなく、
存在そのものを否定され、捨てられるのです。
ひたすら目的達成を目指せば、評価され、生活は保障されます。
やがて、目的を達成することが唯一、自分の存在を認められること、となり、
マシーンと化した主人公は人としての心を失っていきます。
もう、目的達成のためには、なんでもあり、となります。
そして、自分が植え込まれた目的以外のあらゆるものを否定するようになります。
この治療はエビデンスがある!!!
正しい!!!!
あ、その治療はエビデンスがない!!!
エビデンスのない治療なんか、受けるなら出ていけ!!
こういう、人間として、あってはならない暴言を吐いた
医師は、たくさんいたのです。
最近は、すっかり減ってきましたが。
患者さんにとってどうなのか、という中心は失われ
治験によるエビデンスがあるのか、ないのか、ということが、
患者さんの命より優先されてきたのです。
捏造くらい、平気でやってのけるようになるのです。