2015.11.18.
パリ同時多発テロは
イスラム国の犯行と
即断され、イスラム国も
かなりいい加減で、間違いの多い
ほんものかいな、これ ???
という「犯行声明」を出しています。
犯人の真相はともかくとして。
「イスラム国」というのは
名前を見ただけで、イスラムとは
関係ないことが一目瞭然です。
イスラム教の信奉者だったら
そんな国名をつけるはずがありません。
もちろん、「国」というのは勝手に
国といってるだけで、実態は
民兵集団に過ぎませんが
歴史上も、世界宗教の名前を
そのまま冠した国など一つもありません。
イスラム公国
キリスト教帝国
大仏教民国
ゾロアスター民主主義共和国
ブードゥー合衆国
こんな名前の国は一つもありません。
世界宗教なんですから、特定の国の
名前にするわけはありません。
アラブ人がイスラム教を広げましたが
強国として興り
ジハドを実行したのは
アッバース朝と言われ
イスラム帝国とは呼ばれていません。
アラビア半島を席巻後
北アフリカを征圧し
イベリア半島をほぼ占領しました。
トゥール・ポワティエ間の戦いで
フランス軍が勝利し、何とか
ピレネー山脈で押しとどめましたが
その後、ピレネーの向こう側で
唯一、残った拠点
サンチアゴ・デ・コンポステラに
ヨーロッパの全精力が投入され
必死に、イベリア最後の拠点を守ります。
ヨーロッパ中から人々が集まり
文化が交流したことで
初めて「ヨーロッパ」という共通文化が
熟成された、と考えられています。
ゲーテ曰く
「ヨーロッパはサンチアゴ・デ・コンポステラで熟成された」
実は、今日の「カソリック」と呼ばれる
教義の概ねは、13世紀ころ、
サンチアゴ・デ・コンポステラ
を中心にかたまります。
それまでの「キリスト教」とは
随分と違うものになりました。
ヨーロッパは、イスラムに対する危機感から
統一、熟成されていったのです。
アッバース朝が衰え
ヨーロッパ勢が逆襲をかけ
その後、イスラム教はなくなりませんが
イスラムの国 というのは創られていません。
イスラム教を信奉する人が多く住む地域に
つくられた国はいくつもありますが
イスラム教を広め、ジハドを実行する
などという国はありません。
トルコ系の各王朝がイスラム教を国教とし
強勢を誇りましたが、国名は、オスマントルコ等
あくまで、「トルコ」であり、そしてトルコ語を
話すのであって、アラビア語は話しません。
コーランは、「音曲」の如くに朗読し、音とリズムが
重要だそうですが、アラビア語を話さないで
どうやってるのでしょうか、、、、
トルコは、トルコ人の領域を広げようと
他民族地域への侵略やアルメニア民族大量虐殺なども
やってのけましたが、別にイスラム教を広めようと
したわけではありません。
必要におうじて、仏英と組んで
直接的には最大の脅威である
ロシアと闘ったりしてきました。
親日と言われますが
日露戦争で日本軍が
ロシア軍に少なくとも
戦闘では大勝利したというのは
熱狂をもって喜ばれたそうです。
南進政策をとるロシアは、
トルコにとって、クリミア戦争で国家の存亡を
かけ闘った相手です。
ロシア黒海艦隊が日本と闘うために
首都の目の前の海からいなくなり
遥か彼方で、一方的に全滅させられたのですから
こんな快挙はないわけです。
肝心のアラブ人は、アラブ連合共和国として
アラブの統一を図ったこともありましたが
イスラム連合共和国ではありません。
日本での呼称「第四次中東戦争」は
アラブ社会では、「ラマダンの戦い」と
呼ばれています。
イスラム教にとって重要なラマダンの
断食祭の初日、アラブ連合軍がイスラエルへ
奇襲攻撃をかけましたが、聖なるラマダンの祭の時に
まず、禁止されている飲食をサダト大統領自ら堂々と
人々に見せ、これはイスラムではない、アラブの大義による
闘いなのである、と明示します。
インドネシアにもイスラム教は広がりましたが
彼の地の人々が今も慣れ親しんでいるのは
「ガルーダ」神です。
イスラム教がジハド(聖戦)の対象としたのは
「カソリック」です。
キリスト教を敵視したのではありません。
「聖書」は、イスラム教の聖典の一つであり
「ナザレのイエス様」や、そのイエス様に
洗礼を与えた「バプテスマのヨハネ」も
イスラム教五大預言者に列せられています。
バプテスマのヨハネの首を刎ねたのは
「ローマ」であり、その首を大切に
守ってきた聖廟は、今日では
シーア派最大のモスクである
ウマイヤドモスクの中にあり
人々の厚い信仰を集めています。
シリアのダマスカスの中心街にある
巨大なモスクで、何度か訪れましたが
やっぱり一番、人々が集まるのが
バプテスマのヨハネの日本風に言うところの
「首塚」 です。
塚というより、長い四角い箱に入っているのですが。
「ローマ」が後々、キリスト教を迫害しながら
途中から、利用する方針に変更し
教義も「カソリック」に変えてしまいます。
中世ヨーロッパでは、貴族の若者は留学をするのが
習わいでした。
大抵、先進地域であったイスラム社会へ行くのですが
何といっても、イスラム社会へ行けば
聖書を読むことができます。
カソリック社会では、
聖書は見つけ次第、焼かれたのです。
一般信者は、貴族であっても
教会で、「話」を聞くのであって
自分で聖書を読む機会はありませんでした。
それも「つくり話」を聞かされ
聖書のどこにも書いていない
「聖母マリア」だの
「地獄」だの「あの世」だの
全く、キリスト教とは関係のない
様々な宗教のエッセンスを適当に
混ぜ合わせたチャンポン話を
聞かされていたのです。
これを、どこの宗教を信じていても
ある程度、普遍的に違和感なく
聞けるということで、
「 普遍 = カソリック 」
と呼ばれています。
つまり、ケルトやゲルマン
北欧神話を奉じる人々に普及し
ローマ帝国の求心力とするには
最初から、彼らが信仰してきた
宗教のエッセンスを混ぜてしまった
ものに作り変えればいいんだ、という
「マーケッティング戦略」 として
カソリックはつくられました。
後日、プロテスタントが聖書回帰
原点復帰と、聖書を大量印刷し
英語にも翻訳していきますが
その時には、もう聖書の中身は
挿げ替えられています。
ただ、きっかけは、なんで聖書と
何の関係もない話をキリスト教として
教会で話しているのか、という
争点があったわけです。
預言者は、神の言葉を預かるので
そう呼ばれるのであり
預言者が語った言葉を記す聖典は
「神の言葉」なのです。
イスラム教にとっても
聖書は旧約であれ
新約であれ、
神の言葉なのですから
大切にされてきました。
カソリックは、それを
焼いて、人々が読めないようにした上
全然、違う話を神の名を語りながら
吹き込んでいったのですから
怒った神が
マホメットに
カソリックを討て!と
命じた、それが
イスラム教の興りです。
ジハドは、邪なカソリックを討て
ということであって、ギリシア正教は
対象にはなっていません。
ギリシア正教の聖地アトス山に
納められている秘宝が100年に一度
御開帳になるのですが、ちょうど
訪れる機会があり、そこで
ビザンチン帝直々に署名された
聖書の実物を手に取れるような距離で
拝見させていただきました。
あの美しい赤い色のサインは
崇高な輝きがあり
忘れられないインパクトがあります。
これは、オスマントルコにもっていかれたんだ、と。
ところが、大切に扱ってもらったうえに
ちゃんと返してくれた。
イスラム教は、正教に対して
無茶苦茶なことはしない。
攻めてはきたし
人も殺された。
でも降伏すれば尊厳は守ってくれた。
ところが、同じキリスト教のはずなのに
カソリックが興した十字軍は
どうしようもない非道を極めた
何故なのか! と泣いて叫ぶ
神学者に、何も言うことはできず
ただ、じっと、その心を受け止めようと
魂の叫びを聞き続けました。
十字軍が何をしたのか
現場をみたことも
当時の記録映画をみたことも
もちろんありませんが
伝えられる話やら
実際の十字軍の砦などは
いくつも見て回りましたが
「えげつない」 ものです。
第1回十字軍は、これは
「戦争」でしょう。
まあ、戦争ですから
悲惨ではありますが
一応、戦争です。
次からは、戦争にも
なっていない
ただの強盗です。
第10回十字軍は、
少年少女を兵士として集めて
攻め込むどころか
彼らを奴隷や売春婦として
売りとばしました。
いくらなんでも酷過ぎ!
ということで十字軍は中止され
後世、ローマ教皇が十字軍の誤りを認め、
謝罪するという事態に至ります。
イスラムは、ヨーロッパにとって、
かつて、先進的文化という憧れであり
妬みであり、軍事的脅威であり
恐怖であり、古い肉を食べるのに
どうしても必要な香辛料の商圏を
握るビジネス上のライバルであり
(なので、地中海を通らずに、インドで
コショウ等を直接、仕入れるため
大航海に出たのです)
聖書を守ってきた
キリスト教にとっての聖なる地でも
あるのです。
という背景があって
軍事・経済力をつけた
ヨーロッパは
未だに、イスラムに対する
嫉妬心を様々な形で
現してきます。
一方、イスラム社会は
アッバース朝が倒れた後
マホメット自らが率いたころのような
破壊力も、求心力もなく
ジハドどころか、一方的に
ヨーロッパ勢の政治・軍事・経済的な
蹂躙を受け、いいように情報操作を
され、悪いイメージで語られています。
では、実際に
空爆をやるのは
どちら側か
難民を大量に
出す状況に
追い込まれているのは
どちら側か
それは誰の目にも明白です。
(続く)