日本人といっても
明治維新ころまでは
諸民族の集合国家でした。
歴史的にも、様々な人々が
日本列島に渡ってきており
大量移民もありました。
大陸と陸続きだった時代には
氷河の戻りで、ユーラシアの大半が
数十メートルの氷に覆われた状況下
火山や世界最大の暖流が運ぶ熱など
日本列島は、凍っていない真水のある
非常に恵まれた地として、大型哺乳類の
大群が押し渡り、それを追って
大陸中の人々が殺到しました。
日本人は、超雑種なのです。
日本列島として海に浮かぶ島となったあとも
人々は海を越えてやってきました。
やはり、暖流がぶつかる今日の和歌山県には
人口が集中していた時期もありました。
和歌山の南部(みなべ)という古代史によく登場する地に
延べ1年ほど、住んでいたのですが
古墳だらけで、それも海岸の岸壁の
洞穴式など、相当、古いものが至るところに
ありました。
気候は亜熱帯ですので、大梅林もあれば
備長炭の産地としても有名です。
温帯には生えてこない、とても硬い木
ウバメガシが生えており、これで硬い炭を
つくるのです。 うっかり、脛をコン! と
当てると、呼吸ができないほどの激痛でした。
ムカデも十数センチ、ゴキブリの大群も
とんでもない大編隊で飛行し、一匹一匹も
巨大です。
その後、大量移民というと、弥生の侵入と
正史が伝えるところの、ヤマト、越の国、日本
この三国が統一された頃、7世紀に
巨大な人口の大波が
日本列島に押し寄せています。
百済、高句麗が滅亡後、両国の遺民が日本列島に
押し寄せ、日本列島の人口が10倍に膨れ上がった
という説もありますが、その後、大量移民は
ありませんので、そうなると、今日の日本人の
祖先の9割は、百済、高句麗の遺民ということに
なります。 もっとも、天然痘がもたらされ
これが大流行し、人口が激減します。
そして、時代は少しさかのぼりますが
古代日本が最も栄えていたであろう
4世紀末~5世紀初めころ、西日本各地から
それまでほとんどでてこない馬の骨が
大量に発掘されています。
仁徳天皇陵をはじめ、巨大古墳群や
巨大運河が建設されていく
大きなインパクトがあったということですが
学校で教える日本史が最も沈黙する時代です。
さて、紀元前3世紀ころをピークとする
弥生の侵入とはどのようなものだったのでしょうか。
とりあえず、学校で教える世界史が一切、
語らなかった大陸にいたときの
弥生人のことは次回に回すとして、突然、海から
襲ってきた後、どうなったか。
弥生が侵入する前から、西日本の日本人勢力は
著しく衰退していました。
縄文人という風に学校では教えていましたが
もちろん、縄文人が、自分たちのことを縄文人と
呼んだ可能性は、限りなくありません。
後世、地面の下から掘り出された土器の破片に
縄目文様がついていたから、縄文と勝手に呼んでるだけで
ある意味、とても失礼な話です。
彼らは、自分たちのことを何と呼んでいたのか。
わかりません。
そういう意識もなかったかもしれません。
アルファベットを発明したフェニキア人も
アルファベットは、帳簿をつけるのに
使ったのであって
歴史などは書いてません。
フェニキア人はフェニキア人のことを
何と呼んだかはわかりません。
ギリシア人にとって、フェニキア人とは、
自分たちより何をやっても優秀で、
常に、どこにいっても、先に来ている人たちでした。
圧倒的に先進的な文明をもつ人たちを猛烈に妬み、
文明・文化を奪い、機会をうかがっては殺そうとしましたが
どんなにたたき殺しても、必ずよみがえってくる不死鳥
フェニックスのような連中、ということで
フェニキア人と呼ぶようになりました。
弥生にいたっては、なぜ弥生なのか
教えられた記憶はありませんし、
海外からきたはずなのに、突然
日本史だけに登場し、すぐに名前が消え
どうなったかは教えられませんでした。
さて、弥生に限らず、紀元前3世紀というと
地球規模の寒冷化が続いており、世界規模の
飢饉が勃発していました。
世界各地で、民族大移動の嵐が渦巻いていたのです。
こういうの、世界史と日本史を一緒に教えれば
違和感ないのですが、別々にするから、
日本史の授業では、「突然」脈絡もなく
弥生が侵入するのです。
放っておくと、竹藪になる西日本では、絶望的な食糧不足が
続き、日本人は激減していたのです。
東日本は、野生種は、ブナやクヌギ、ナラなどです。
保水力があり、秋には葉っぱがおちる照葉樹林帯を形成し
藪になってしまう西日本より、見通しが利く狩猟には
好都合の植生ですが、豊かな腐葉土が川や海を潤し
大量のプランクトンを育み、貝類や小魚、さらには
大型魚類などが集まってきます。
寒冷化が進む状況でも、大量のサケが遡上してきた
東日本では、それほど人口の減少はみられませんでした。
弱り目に祟るように、弥生の群れが次々に
西日本に押し寄せ、日本人を圧倒します。
どの集落が、どの時期に使われていたかを
丹念に調査した考古学の報告によると
ただでさえ激減していった西日本の集落は
弥生集落の大群に飲み込まれ、ほぼ消滅していきます。
しかも、出土する人骨を調べれば、自然死した人は
稀だったようです。 基本的に、当時の人は、
殺されて死んでおり、しかも、「調理」された跡が
骨に残っています。
自然死は一部の幸運な人だけだった状況は
圧勝していたはずの弥生人も同様で
弥生人は、日本人を食糧にしただけではなく
自分たちも共食いしていたのです。
もっとも、弥生という単一民族がいた、
というより、結構、いろんな人々が
ごっちゃにいたようですが、ともかく
食糧危機にあるのは同じで、
大変、厳しい状況で何でも食べていた
ようです。
狩猟民は自然と共に生きないと
生きていけません。
そう無茶な殺戮はやりませんし
獲物にも敬意を払います。
日本人の武器はいずれも小型で
殺人用にはできていません。
弥生の武器は殺人用の大型のものです。
弥生は、農耕民ですから、自然を制御しようとし
農耕する土地を確保しようと、他民族を
殺戮し、所有します。
人を殺し、人のものを盗む、奪う、
こういう特性をもっています。
千年の大木を切って、建物をたてれば
苗を植え、千年後にその苗が大木に育つまで
長持ちする建物にする、千年の計で
森を育ててきた日本人。
一夜にして、森林を焼きつくし、
畑にしてしまう弥生人。
両者が戦えば、どうなるか
火を見るより明らかです。
弥生は、自らに有利なように
環境をつくりかえていきます。
ところが、弥生の進撃は、濃尾平野でピタリと止まります。
そこから先の森林はとても豊かで、日本人の人口も多く
弥生人の侵攻を撃退したのです。
紀元1世紀ころまで、両者は相いれず、殺戮の応酬が
続きます。 ところが、1世紀のおわりころから、
自然死したと考えられる人骨が増え、両者の文化の
融合や交流がみられるようになります。
豊かな自然に育まれた日本。
どんな民族が世界中からやってきても
それがたとえ、人食い弥生人であっても
やがて、深い自然に受け容れられ、
異質な文化を認め、融合する日本人の
精神を宿すようになっていく、
そういう傾向が垣間見られるように
なっていきます。
とはいえ、概ね、西は弥生中心
東は日本人中心、この構造の大枠は残り
その後、2000年に及ぶ戦いが続きます。
では、日本列島に押し渡った弥生人、
どこからきたのでしょう。
なぜ、日本列島に渡ってきたのでしょう。
(つづく)