2016.10.11.
日本人の魂というタイトルながら
どうしても、
倭人の話が多くなってしまっています。
文字で記録を残し
「歴史を書く」
のが仕事の人たちですから
「歴史を創る」けど「書かない」人たちの話より
圧倒的に、文献などが多くなるので
話としても書きやすいのです。
それは文献で確認できるのか、、、
よく学者先生がおっしゃる言葉ですが
極めて倭人的な物言い、ですね。
だって、都合のいい話を
「歴史書」として書いたんですから
文献を信じてくれれば、都合のいい話の嘘が
ばれないわけです。
もちろん、日本に渡来してきた倭人は
日本人になっていったのですが
渡来してくる前の状態は
あまりに「えげつない」もの、、、
日本は美しい自然に恵まれ
四季の変化があり
暖流と寒流は、各々、数多の幸を運び
異なる流れがぶつかる潮目は豊かな海となり
変化に富む植生は、多くの恵みをもたらし
活発な火山はある時、火を噴きあげ
災害をもたらしますが、あらゆる鉱物を
与えてくれます。
これほどの恵まれた地に暮らす人々は
労働することなく、生きる糧を得
土地に縛られず、自由に動き、生き、交流し
多様に富む文化は、異質な人々を受け容れてきました。
男と女の関係も、完全に自由でした。
ルールは一つだけ、美しければいい。
(関係が、ですよ)
というタッチで、日本人の魂を書き続けられればいいのですが
寒冷化の波は何度も押し寄せ、その度に、食糧が足りず
冬の間に、餓死する人がでてしまいます。
その都度、生き方を変えることを強いられました。
そして、世界規模の大寒冷化の波は
大量の移民流入を招き、これがまた
次元とスケールの違う食糧難に陥った大陸で培われた
信じがたい残虐性を発揮する
とんでも集団でした。
こうしたものが、長い時をかけ、
あるところは融合し
ある面では、未だに、過去の対立を
ひきずりながら
今日に至っています。
学校で教えられた歴史では、
倭人の正体を隠し、
日本列島侵攻作戦の最中だけ
「弥生」と勝手に名前をつけ
定着後は、弥生はどうなったのかわからない、、、
しらあ~~~ と、倭に戻ってる 。。。
渡来系の中のザ・渡来人である
倭人のことは渡来系とはいわず
倭人以外の列島外から来た人々を
「渡来系」と呼ぶようになっています。
大陸に残った倭人については
世界史の授業に登場し
倭人とは呼ばず
「中国人」と言ってのけていました。
戦後できた国ですね、中国って。
そんなもん、歴史上は存在しませんよ。
中国人というのは、まあ、最近
中国で生まれた人に、華人や華僑を加えたもの、、、
というイメージができあがってますが
歴史的には、様々な民族、それもほとんどが
今日の中国人とはかなりルーツが異なる
遊牧民がつくった王朝が乱立し
1960年時点でもまだ
主流派、漢民族の人口比は
4割程度でした。
これが、あっという間にほとんど100%に
近く漢民族だらけになったわけで
それはもう、弥生どころではない
とんでもないことが行われたのですが。。。。
秦の始皇帝が中国を統一し
そのあとは、ずっと中国なんだ
中国人の国なんだ、、、
と思わせる授業だったと記憶しています。
そんなものは、嘘だと、すぐに気付いたのですが
確かに、教科書には、そういう風にしか書いて
なかったですね。 参考書には違うことが
書いてありましたが。
秦の始皇帝の軍団は、短期間で消え失せ
どうなったのかわかりません。
当然、追っかけまわされ、逃げまどった
倭人は、中国揚子江中下流域や
沿岸部、各半島の先端部を中心に
多数、残っていたのです。
朝鮮半島にも、特に南部にはたくさんいたのですが
朝鮮半島の歴史は、徹底的に軽視され
ほとんど何も教えられなかったですね。
馬韓・弁韓・辰韓、百済・新羅・高句麗
あとはもう、高麗(こうらい)とか、李氏朝鮮とか
ポロッとでてくるだけで、大体、高句麗というのは
そんなちっぽけな朝鮮半島の国ではなかったのですが
ここだけに高句麗が含まれていました。
そして突出して、「任那日本府」 これだけが
授業では、大いに盛り上げる演出をされながら
教え込まれた記憶があります。
これは明らかにでっちあげです。
倭だったんですから。
大きい倭で 大倭(ヤマト)に
なってましたが、当時の朝廷は
日本ではなく、日本というのは
もっと東あるいは、北の方角の
別の国だったのです。
と、日本書紀にも書いてあるにも
かかわらず、大和朝廷の出先機関を
日本府と言ってしまったのは
無謀に過ぎました。
後日、袋にされ、最近では
任那日本府など言わないようですが。
なんで、こんな話をでっちあげたのか。
それには高句麗好太王碑が大きく
かかわっているのですが、
もう少し、倭人がやってのけた
世界を動かす大発明について
説明してからにさせてください。
(つづく)