2017.9.30.
曼珠沙華の花さく候
真紅に彩られる巾着田(きんちゃくでん)を
天皇皇后両陛下がご訪問されました。
両陛下が高麗神社(こうま)を御参拝された、
と、まだまだネット上で
話題になっています。
古代高句麗最後の王 若光王様が
息を引き取られた高麗郷(旧称)を
両陛下がご訪問されたということで
私的な旅とはいいながらも
さまざま憶測の類も飛び交っています。
陛下が高句麗のことにお詳しいことに
宮司さんが驚かれたそうですが
皇室の方々は高句麗のことには
お詳しいはずです。
皇室では、一般国民に教える歴史とは
異なるお話を学ぶ機会があると
聞いております。
高麗神社は、お参りした方が次々に首相に
就任されたということで、
出世神社と呼ばれていると
聞いたことがあります。
実際に、人があまり来なかったころ、
参拝者や寄進者のリストをみると
日本政府の要職にある方々がずらりと名を連ね
正月には、実際に数多くの方々がお越しに
なられていました。
一般人が知らないだけで、高麗神社は
あるレベルの方々には有名なところなようですね。
高麗神社にお参りしたから御利益で総理になるのではなく
総理に就任間近な人は、高麗神社にお参りする慣習でも
あったのではないのでしょうか?
これあくまでただの推測です。
最近は、すっかり観光地になってしまったようで
大勢の人が押し掛けているみたいですね、
私自身は寄り付かなくなりました。
私は古代高句麗王直系の高麗恵子様ご本人に
出会わせていただき、それも人工心肺で
命を繋いだような厳しい状況で、そこから
九死に一生を得た上、人生もすっかり変わりましたので
高句麗について語れば語りつくせないものがあります。
ただ、なぜかこのテーマでブログを書いても
アップしようとすると様々なトラブルが起こり。。。
ううん、、、書くなということか、、、、
まあ、ネット上で飛び交っているコメントの数々は
ええ!?!? なんでそういう話になるの???
たとえば、高句麗は朝鮮の国だとか。
基本的な誤解によるコメントの洪水です。
確かに参道より手前に
天下大将軍 地下女将軍 という
トーテンポールみたいなものが立っていますが
あれは韓国人の寄進で建ったものだそうで
高句麗とは何の関係もありません。
あまりに情報が踊っているようですので
今回は、日本書記に載っている話などを中心に
ものすごく基本的なレベルの話から整理をしてみます。
まず高麗(こうま、と読みます)神社の高麗。
古代高句麗の「国号」です。
「高」は「天」、「麗」は「地上でもっとも美しい」を意味し
天の理想をこの地に実現という国創りの精神を顕しています。
アレキサンダー大王を生み出したトラキアをはじめ
世界各地の聖地に雄と雌、二頭の鹿が並ぶモチーフが
用いられています。
初めて「鹿」と聞いた時には
子供のころ餌袋をもつ手に口を突っ込んでくる
浅ましい奈良公園の鹿を思い出したので
なんで鹿が美しいのか、、、、と疑問に思いましたが
エチオピアの山岳地帯にすむ完全な野生のシカである
マウンテンニアラの麗しい姿を一目みたとき
あ、これのことか、なるほど美しい!! と納得しました。
国号としては「高麗(こま)」
人の名前や氏族名の時は
「高麗(こうま)様、高麗(こうま)氏」
民族名としては「高麗族(こまぞく)」
高麗神社というより
すぐ近くの聖天院というお寺へ
よくお参りしました。
かつては静寂をたたえた
趣の深いお寺でしたが
最近は「観光地」となり
大勢の人が押し寄せ
入観料もとるようになりました。
現在の韓国のエリアは
どちらというと高句麗と対立していた
歴史が長いのですが、
韓国人は高句麗に憧れ、自分たちの偉大な祖先と
仰ぐので、高麗神社や聖天院にも
どかどか資金を投じ
韓国風のモニュメントを建てたりしています。
聖天院には、「高麗王廟」
高句麗王若光様の廟(王様のお墓)があります。
日本書記によれば、716年
高麗王若光(こまのこにきしじゃっこう)を
長とし、高麗人 1799戸を高麗郷へ移封とあります。
ウィキペディアなどには、1799人と書いてありますが
1799(戸)ですので、人数はけた違いに多いことになります。
日本書記編纂が720年
高句麗系の有力者であり一時は藤原氏を圧倒した
長屋王が謀略により自殺に追い込まれ
以後、藤原氏の権力基盤が確立することになる
長屋王の変が729年のこと
その後、天然痘大流行により藤原四家すべての長が
感染死するという日本の古代史上、最大級の激変期とも
激変期が収束に向かっていったころともいえる
時期のことです。
大和が日本に変わった時ということですね。
で、日本書記。
日本書記によれば、高句麗第19代広開土王好太王様の
子孫が、我が国においては、高麗氏を名乗るとあります。
武蔵野国国司であった高麗福信もその系譜とあります。
つまり東京都知事(埼玉県全域と神奈川県の一部も
武蔵国でした)は、高句麗王好太王様の子孫だった
ということです。
私の自宅がある相模大野を通る国道16号の旧道には
「高句麗王若光様が大磯から高麗郷へお移りになられる時に
御通りになられた道」と由緒書の看板が立っています。
近くには、東京都と神奈川県の境を流れる
高句麗川が並走し(昭和に入り、境川と改名)
古代の地名は高倉郡。高倉は高麗氏の一部が改名したと
日本書記に記述があります。
高句麗では、故郷というニュアンスの国をサガン(寒河)と
言うそうですが、相模国一宮は寒河神社で、相模の名も
サガンが由来という説があります。
藤原氏をはじめ、日本の伝統的な権力階層には
蘇我氏の血筋が入っていますが、日本書紀によると
蘇我氏を興した蘇我稲目の母が高麗氏とあります。
日本書記の筋立てでは、高句麗好太王様の子孫から
蘇我氏が生まれ、聖徳太子を生み、更にその血脈が
日本のエスタブリッシュメントに流れている、という
ことになっています。
聖徳太子の師は高句麗の高僧慧慈。
日出ずる国の天子、、、 という有名な国書を
書き、自ら、隋の煬帝の前で奏上した猛者です。
日が昇る国の天子が、日が沈む国の天子へ書を託す
とやれば、普通はその場で首が飛びますが
超大国高句麗の高僧であるからこそ、無事、使節団は
帰国できたということでしょう。
衝撃的な国書とほぼ同時期にマホメットが神託を受け
アッバース朝が興り、ササン朝ペルシアが
滅亡へ向かう激動期が始まるころです。
ササン朝ペルシア・突厥・高句麗と並ぶ
草原の民の大交易網が活発に交流していた時期であり
沿海州を中心に強力な騎馬隊を擁する靺鞨(まっかつ)が
ことあれば、高句麗に加勢していました。
小野妹子を正司、慧慈を副司とする
第一次遣隋使(実際には、そのあと、
遣隋使の派遣はほとんど実行されていません)
5年後のこと。
動員兵力300万人とも言われる隋は
東アジアの歴史上、最大規模の軍勢
戦闘員113万人 + 補給部隊をもって
高句麗へ侵攻しました。
満州方面でいきなり膠着、逆に
兵糧攻めにあった隋は水軍をもって黄海を
渡らせ、背後を奇襲したつもりが
待ち伏せにあい全滅。
起死回生の正面突破を試みた
最大の決戦「薩水の戦い」には
中軍45万が投入されたものの
高句麗の「万里の長城」を見ただけで
戦意喪失。
撤退を始めたタイミングで総攻撃を受け全軍が壊走。
帰還した隋の兵は1100余人に
過ぎなかったとされています。
東アジア史上最大の敗北です。
こうして強勢を誇った隋は
無謀にも超大国高句麗に挑み
完膚なきまでの敗北を受け
わずか30年で滅んでしまいました。
遊牧民である鮮卑族が興した新興の隋は、
一時的な勢いを得ましたが
万余の軍勢といっても無理やり徴兵された
寄せ集めのしかも歩兵部隊。
一方、高句麗は長い歴史をもち、
表面張力鋼で馬の足先まで覆われた装甲槍層騎兵や
機動力が強みの軽騎兵、超大型の弩弓(設置型の
巨大な弓、女性5人がかりで発射すれば、
どんな猛者1人で射る弓矢より遥かに威力が
ありました)など、軍事技術にも長けています。
何よりも民が私財を投げ打ち
敵が利用できないように大切な井戸にも毒を入れ
田畑を焼き払い、攻め込む敵を兵糧攻めにしながら
全員が巨大な城に入り
武人だけではなく、全ての人々が一丸となって戦に挑む国です。
今回は書きませんが、知略を尽くす高句麗軍団の前に
隋の大軍は翻弄され、なすすべもなく壊滅させられます。
日本人が好む「三国志」は、三国志縁起という
200年ほど前につくられた「歴史小説」であって
実際に、諸葛孔明や劉備玄徳らが覇を競った歴史が
あったのではありません。
三国志に登場する「赤壁の戦い」は、隋と高句麗の
戦いにおける薩水の戦いの前哨戦。
特に隋と高句麗、高句麗の同盟軍であった
靺鞨の騎馬部隊という三国の戦いにそっくりです。
高句麗は紀元前に建国され滅亡する668年まで
700年も続いた東アジア最大の王国です。
漢民族が自ら王朝を建てたのは
前漢・後漢、明、
王朝とはいいませんが
中華人民共和国くらいです。
いずれも700年の足元にも及びません。
漢民族は滅多に国はつくりませんが
他民族が国をつくると、官僚機構の担い手として
実権を握るという行動を繰り返します。
高句麗の中心地は、中国東北部つまり
満州です。
発祥の地は、遼寧省桓仁県五女山です。
最後の都が平城にあったため
北朝鮮というイメージがあるようですが
北朝鮮の領域は「後から広げていった領地」に
相当します。
最盛期には、華北一帯からモンゴル地方へ。
バイカル湖周辺には多数の高句麗古墳が現存し
早稲田大学が調査した最西部の遺跡は
アフガニスタンにあります。
同行された幻冬舎の編集の方には
その時の模様をお電話でおうかがいしました。
日本の歴史教育では高句麗のことをほとんど教えませんが
なんとなく、朝鮮半島の南に百済と新羅、北に高句麗という
イメージを醸し出します。
実際には、そんな矮小な国ではありません。
韓国では、高句麗を自分たちの偉大な先祖と絶賛しますが、
韓国は倭人が大量移住した地域で百済・新羅がありましたので
高句麗領だったことはありません。
なお倭人が日本列島から押しかけたのではありません。
倭人は、揚子江流域から山東半島や朝鮮半島南部、
さらには西日本に押しかけた日本では「弥生」と
呼ばれる民です。
倭人は日本列島人ではありません。
東アジア各地の主に「南側」に分布した民族であり
高麗族は、東アジア各地の主に「北側」に広がった
民族です。
現代の国境と古代人の分布は一致しないのです。
当然、魏志倭人伝は、日本人だけの物語でありません。
冒頭に魏という国は倭人がつくった国とあります。
もっとも百済は、高句麗の分国ではあります。
韓国が国策として制作した大作「朱蒙(チュモン)」は
65ヶ国語に翻訳され、中東地域などでは
視聴率55%以上という絶賛を博しました。
ドラマとしてはよくできた作品だと感心しましたが
高句麗を古朝鮮の焼き直しだとしています。
東南アジア各地で絶賛放映された日本のドラマといえば
「おしん」でしたが、もうちょっと、日本も国策的にいっても
いいような、、、、
漢民族は、伝統的に他民族の存在を抹殺しようと
しますが、現在の中国政府は、
高句麗については、「中国の一地方」なんだと
主張しています。
米国の高官も高句麗について
時折、発言しますが、中国と韓国の領土問題を意識した
発言となり、どちら側に寄るのか、その時の情勢によって
揺らぎます。
北朝鮮では、高句麗古墳は大事に保護し、
中国や韓国のようにいい加減な扱いはしていないようですが
(韓国にはそもそも高句麗遺跡はあまりないのですが)
金氏は、高句麗ではなく、高句麗とは敵対していた人々がつくった
高麗(こうらい)という全く別の国の要職にあった一族の名です。
ちなみに、大阪にも高句麗所縁の地が数多くあったのですが
高句麗橋という日本三大名橋の一つが、高麗橋(こうらいばし)と
名前を変えられたり、高句麗の名は次々に消されていきました。
難波の宮もなかったことにされかけましたが、今では
ここが跡地です、と、明確に公園として保存され
跡地付近に大阪歴史博物館も建てられ、
はっきりと高句麗様式の宮殿と書いてあり
高句麗公館から高句麗橋を渡って
人々が難波宮へと出仕した、とあります。
こういう話を続けるときりがなくなるのですが
高句麗という国は、日本の歴史や文化にとって
関係があるとかないとかそういう半端なレベルのものでなく
日本を構成する重要な要素の一つです。
それが7~8世紀の日本統一の際に、
日本書記編纂の過程でつくられた歴史に、
よく読むと「残っている」のですが、
一般的なイメージとしては
高句麗の存在が薄くなるように
また、朝鮮の一部の小国であった、
若干の渡来人が日本にもやってきた
というお話にされていった、ということです。
古代においては国境とかパスポートコントロールが
あったわけではなく、飛鳥には世界各地からやってきた
人々が当たり前に歩き、住んでいたようで、
高句麗国というのはここまで、日本国はここまで、と
はっきり分かれていたのではありません。
高松塚古墳やキトラ古墳は高句麗古墳ですが
周辺が高句麗の領土だったということにはなりません。
渡来人といいますが、日本人の大半は渡来人です。
倭人も渡来人です。
高句麗系渡来人のことを、高句麗系でなはない渡来人が
自分たちが渡来人であることを棚に上げて「渡来人」と
呼ぶようです。
そもそも、「日本」が成立したのは、高句麗滅亡と
ほぼ時を同じくします。
あくまで日本書紀の記述によれば、です。
大和朝廷が支配する大和の国だったのが、
大和書記ではなく、日本書記を編纂しました。
百済、高句麗が相次いで滅んだ頃には
日本列島の東北地方に「日本」という国があり
大和とは別の国だったとあります。
大和、越の国、日本 の三国が統一されて日本になった
とあります。
この大変、微妙で重要な時期に、高句麗最後の王様
若光王様が高麗郷へと移られ、最期の地となりました。
今日でも美しい花が季節を彩る巾着田は、
若光王様が自ら開拓されたと聞きます。
また、和同開珎をつくられます。
樹の枝の先に葉っぱが広がるような鋳型が
残っていますが、結局、これが日本の通貨に
なります。 もっとも、日本書記では、
この通貨は、古事記が編纂された708年に
鋳造されたとされています。
北朝鮮問題は、東アジアの真ん中に打ち込まれた楔です。
朝鮮戦争以来の緊張感が醸し出される東アジア情勢にあって
東アジアの歴史の要、東アジアが共有できる鍵「高句麗」の
最後の王様が眠る地に天皇皇后両陛下がご訪問された
真意はわかりませんが、東アジアの平和を祈念してのものと
考えたいところです。
少なくとも、
一国の元首が、他国の元首をロケットマン、
言われたからといってならず者と言い返す
互いに品格皆無の状況下、
古代王国の王様所縁の地を
表敬訪問される我が国の象徴天皇皇后両陛下は
誇りとしてよいと考えます。