前回の続きです。
できれば同じタイトルの(1)(2)を
先にお読みください。
ドイツ軍がフランスへ侵攻、講和条約を
締結し、日本軍が友好国ヴィシーフランスの
領土となったベトナム等に進駐したのが
1940年7月。
このころ、ヨーロッパではスイス、
スウェーデン、スペイン等の中立国を
除いて、殆どの国がドイツかソ連の
占領下、あるいはイタリア、フィンランド
ルーマニア、チェコ、ブルガリア等
ドイツの同盟国となっていました。
英本土上陸を狙うドイツ軍は
空爆を繰り返し
バトルオブブリテン(英本土航空決戦)が
激しい火花を散らしていました。
その後、日本軍が英連邦領マレー半島コタバルに
敵前上陸を敢行し、第二次大戦に参戦したのが
1941年12月8日未明、その後、矢継ぎ早に
空母機動部隊によるハワイ空襲、
台湾から長駆単発機でフィリピンクラーク基地を空襲
北方領土を出撃した双発の中型機が太平洋に
浮かぶウェーク島を長距離爆撃と猛攻をかけるまで
まだまだ1年以上の時間があります。
この間、ABCD包囲網による経済封鎖と
経済封鎖解除の条件をつきつけた
ハルノートへの対応につき
陸海軍の意見は真っ向から対立しました。
米国太平洋艦隊の司令部があるハワイを空襲する
という海軍と、あほか! わざわざ米国の世論に
火をつけ、米国の参戦を積極的に招いてどうするか、
海軍は米国と戦争したいんか !?!?
勝てるわけないやろが!!!
そんな太平洋の真ん中まででかけていって
その後どうするのか、一発殴ったら帰ってくる
しかないぞ、補給が続かないんだから
占領もできんだろ、
輸送船の数かぞえてから言えと憤る陸軍。
南方資源を押さえたら、後は
ひたすら守るだけ、それが日本の
国力の限界だ、と。
この際、しょうがないので
このまま兵糧攻めにあったままくたばるより
米国政府が望む通りに日本から
先に手を出して戦端を開くにしても
まず蘭印へ侵攻し、天然資源を確保する。
さらに英連邦とも交戦し
東南アジアとインド洋を征圧しても
グアムやフィリピンといった米国領に
手を出さなければ、米国とは戦争を
しなくてもすむかもしれないではないか
という考え方が根底にありました。
実際、英独は激戦を展開していましたが
米国は輸送船団で物資を送るだけ。
ルーズベルト大統領は偶発的戦闘の発生を
期待して米海軍の駆逐艦を船団護衛に
つけさせましたが、ドイツの潜水艦は
わざわざ駆逐艦を攻撃する考えはないので
若干の戦闘は発生したものの
ほらドイツが米艦艇に手を出した
さあ、戦争だ、という派手な状況には
なりません。
本国がドイツに負けている
オランダ軍のインドネシアにある基地を
日本が攻撃しても
それで米国世論が米国参戦をOKは
しないだろう、と。
また様々な意味でインド洋への進出は必須でした。
インドは英連邦の軍需物資の8割を生産しており
ここが最低とまれば大きな打撃になり
あわよくば日本に供給するようにできれば
強力な味方となります。
英連邦軍というのは寄せ集めです。
カナダ師団、オーストラリア師団
ニュージーランド師団、最精鋭グルカ兵大隊
英国師団の中にもスコットランド大隊などがあり
数の上で圧倒的に多いのがインド兵師団です。
カナダは国ですからカナダ師団ですが
インドは植民地ですのでインド兵師団と
明確な差別があり、装備も貧弱、士気も低いのですが
そうはいっても英連邦軍の布陣をみれば
どこでもインド兵師団が後方側面に多く展開したり
捨石に前線に置き去られたりしています。
マレー半島に上陸した日本軍を迎え撃った
インド兵は脱走しないように足に鎖が
ついていることもありました。
陸軍はインド国民党軍を支援しますが
インド独立機運を盛り上げていけば
英連邦インド兵の士気低下やサボタージュ
あるいは反乱など、英連邦軍の戦力低下や
内部分裂を期待できたかもしれません。
またビルマの援蒋ルートを寸断すれば
「中国の服を着ている雇われ中国人による米軍」
蒋介石率いる中国国民党軍の
兵站を切ることができます。
国民党軍との戦闘に国力を消耗していた
日本としては、この敵が沈静化するのは
願ったりかなったりです。
国民党というのは日本人がかくまった
孫文の流れを汲んでいるものの
米国資本によって支えられ
毛沢東もメンバーでした。
元はみんな米国のお金で
動いていたのです。
さらに米軍は民間ボランティア団体
フライングタイガーを中国におくりこみ
どうあっても日本と戦争をする気で
いました。 ボランティア団体に
日本との戦端を開かせ、後から
本格参入する腹積もりでした。
ボランティア団体といっても
米空軍の部隊が丸ごと退役し
民間人として中国へ乗り込んだのですが
給与は米軍からでており、
戦闘機なども「支給」ですから
どうみても米軍そのものです。
日本を最初に爆撃したB29は
中国の成都の基地から小倉方面へ
飛来したものでしたが、中国に
戦略爆撃機を展開することで
開発中の原爆を日本本土へ投下する
ことも考えていました。
実際には日本軍が成都を占領し
米軍基地を無力化しましたので
サイパン、テニアンが陥落後に
B29の爆撃が本格化します。
陸軍としてはビルマを占領すれば
目の上の瘤である
中国に食い込む米国の手を
潰すことができる、と踏んでいました。
この作戦は開戦後に実行されましたが
米軍はインドからヒマラヤ山脈越えに
輸送機を大量に飛ばし
国民党軍や中国に展開する米軍部隊へ
補給を続けます。
また日本が参戦するに当たり
いくつか大きな問題があります。
ソ連をどうするのか、ということと
ドイツの石油がどうなるのか、です。
実際、満州に展開する精鋭、関東軍が
どう動くかが第二次世界大戦前半の
世界情勢の趨勢を決定的に動かします。
南方転出、南方資源確保のために
関東軍を転出させることを
スパイ「ゾルゲ」に見抜かれてしまった
日本は、致命的なミスを犯しました。
最精鋭部隊をシベリアへ集結させていた
ソ連軍は関東軍の動向に神経を集中して
いましたが、対ソ開戦はないと判断して
全軍をヨーロッパへ投入、
ドイツ中央軍集団を
壊滅させます。
日本がハワイを空襲する
直前、すでにドイツは敗れたのです。
この件は、第二次大戦は誰が絵を描き
何を目的に、如何にして日本を戦争に
ひきずりこんだかの根幹を為すところですが
複雑な話でもあり、
以前にこのブログで書いてありますので
今回はパスします。
インド洋を征圧しなければいけない理由。
英連邦の軍需物資の生産の8割がインドなので
この供給路を断つというのも一つの理由ですが
もっと決定的なことがあります。
ドイツは石油がとれないのに
世界大戦を始めているのです。
航空機用ハイオクタン価ガソリンは
石炭の液化で生産していましたし、
ルーマニアの油田も使えたのですが
全油種十分量とはいきません。
重油があまり手に入らず
戦車、トラック、潜水艦はどこの国でも
ディーゼルですが、
ドイツ海軍の大型艦艇はディーゼルで
動くものが多かったのです。
この燃料はスペイン経由、米国から
購入していました。
また金属の精密加工に必要な
工業用ダイヤモンドが
採れないドイツは
米国製の合成ダイヤモンドを
購入していました。
これも止められると
戦争できなくなります。
もっとも見返りに
ドイツの軍事産業は
戦争中も米国へ
精密な長距離航法装置を
供給していました。
これをつけた米軍機が
ドイツ本土に戦略爆撃を
かけることになります。
飛行機であれ車輛であれ
ベアリングは必需品ですが
これを生産できないドイツは
かなり無理があったのですが
スウェーデンのSKB社が
供給します。
米国企業の子会社が工業を握るドイツ。
この複雑な親子関係の中で
日米開戦、米独開戦となっていけば
ドイツの軍事産業を支えてきた米国から
戦略物資の供給はどうなるのでしょうか。
ドイツが中東へ進出し、独自に石油資源を
確保するには、まずエジプトに展開する
英連邦軍を撃破する必要があり
超エリート、ロンメル将軍率いる
ドイツ北アフリカ軍団がリビア、チュニジアから
エジプト方面へ快進撃を続けていました。
地中海航路はドイツ、イタリア空軍の猛爆を受け
英連邦軍の輸送船が次々に撃沈されました。
そこで喜望峰を回って東アフリカからスエズ運河を
通り、アレキサンドリアへ戦車や火砲、航空機や
物資を補給していました。
これが止まれば英連邦軍は壊滅、ドイツは
中東の油田地帯を手に入れ、
第二次世界大戦の基本構造が大きく
シフトすることになります。
また日本の桁外れに長い航続力をもつ
大型飛行艇や爆撃機をヨーロッパに送れば
米国の大輸送船団が英国本土に
到着する前に北大西洋で壊滅させることが
できます。
英連邦にとって大変、まずい状況だったのは
マダガスカル島がヴィシーフランス領だったことです。
ベトナムと同じように日本軍が無傷で航空部隊を
進駐させれば、それも大部隊でなくても
数十機の飛行艇を進出させると
もうインド洋と北アフリカの英連邦軍は
終わりです。
インド洋を海軍が征圧する間
インド国民党軍というインド国外で
編成された親日勢力をインドへ進軍させ
インド独立戦争を仕掛けることで
世界の勢力図をひっくり返す策が
練られていました。
1941年2月 東南アジアの
連合軍艦艇をほぼ全滅させた日本海軍は
インド洋へ空母機動部隊を送り込み
闘う振りだけして逃げまどう英連邦艦隊を
追いかけまわします。
当時の英空母はまだ複葉機を搭載しており
日本の空母機動部隊の敵ではありません。
逃げ遅れた艦艇が袋叩きにされましたが
それよりも決定的に重要だったのが
仮装巡洋艦と潜水艦部隊を東アフリカ航路に
送り込み、北アフリカへ向かう輸送船を
全滅させたことです。
北アフリカ情勢は一気にドイツ軍有利となり
ドイツ軍から日本に感謝状が届きました。
英連邦軍は壊滅の窮地に陥りましたが
その後、何度となく繰り返された
「謎の反転」により日本海軍は
圧倒的な勝利をほぼ手中にした時点で
撤退します。
その後、マダガスカル島に
英空母機動部隊が来攻
敵前上陸の上、島を守る
ヴィシーフランス軍と交戦しますが
日本海軍は潜水艦を3隻送っただけ。
それでも英戦艦ラミリーズを大破させると
英連邦軍は緊張の極みに達しますが
即座に日本海軍は撤退します。
これで勝てる、という時に
謎の反転は海軍のお家芸です。
第二次大戦において
インド洋を征圧という
もっとも決定的な勝機は潰え
日本の無敵艦隊は全く意味不明の
ニューブリテン島ラバウル占領へ向かいます。
本土から延々離れ、占領したところで
何がどう変わるわけでもない南太平洋の果てまで
戦線を延ばしてしまったのです。
ラバウルに建設された
何の意味もない巨大基地は
3000機の作戦用航空機を
運用する能力をもち
これは海軍航空隊の実戦配備中の
全機数を上回るもので
終戦時も健在でした。
米軍も戦略的に意味がない巨大基地を
放置したからです。
以後、二度とここまで日本が
優位に立ちかける機会は
訪れませんでした。
終戦前にインド国民党軍と共同で
インドへの進軍を強行した
インパール作戦は
無謀な計画の代名詞として
日本企業の間でも使われるようになりましたが
本来の時期に、然るべき状況で決行すれば
歴史を大きく動かした可能性がありました。
実際には戦局が著しく悪化した後に
揺るぎない制海権を掌握した
英連邦軍に完敗し、将兵の過半が餓死
退却路は白骨街道と名付けられた
悲惨な戦いとなりました。
(続く)