キトラ古墳の天井に描かれている「宿星図」が天文遺産に登録されました。
この宿星図は現存する「人類最古」の天文図です。
古代エジプトをはじめ、世界各地に星座を現す遺跡は数多く発見されていますが、天体の位置を正確に記した星図としてはキトラ古墳のものが「最古」です。なかなかとんでもないものが日本の明日香にあるわけです。
近くにある高松塚古墳の方が有名ですし、子供のころ壁画の実物を観に行った時の「生々しい~~」英語でいうと、ほとんどジューシーというレベルに鮮やかで生き生きとした躍動感は数十年経った今も忘れられません。高松塚古墳にも宿星図が描かれていますが、キトラ古墳の方が古いと考えられています。なので人類最古の天文図はキトラ古墳の方。
誰を埋葬したのか、いつ作られたのか正確なことは明らかにされていませんが、やる気になればもっとできるようなものだと考えます。一応、キトラ古墳に埋葬されている男性が着ていた衣類の襟には「葛井(フジイ)」と名前が書いてあるのですが、「偉い人」が亡くなって、その人の名前をわざわざ書くということはしません。当然、わかるものだからです。 わざわざ書いてあるので、あとから誰かが書いたのだろうと考えらえています。
キトラ古墳も高松塚古墳も詳細情報がなかなか公開されず、しかも何をやっているんだというほど保存のやり方が無茶苦茶で相当、発見当時の瑞々しさが失われているのは残念なのです。それでも人類最古ですから、キトラ古墳の存在が消えることはありません。このタイプの古墳は高句麗古墳や、トラキア古墳など、いくつも実物の内部をみてきたのですが、石室の周囲をちょうど程よく土盛りして、内部の温度や湿度が安定し、高句麗古墳なら2000年前に使われた顔彩が今も色鮮やかであり、トラキア古墳の場合は6500年前の壁画が鮮やかな色彩を放っています。これを発掘してしまうと絶妙なバランスが崩れますから、よほど慎重に保存しないと劣化が進んでしまいます。日本には技術がないはずないのに中国や北朝鮮にある高句麗古墳よりも発掘初期のころの管理が遥かに杜撰でした。今は大事にしているようですが、一度、風化したら元には戻りません。
キトラ古墳も高松塚古墳もどちらも高句麗様式の古墳です。四神図が描かれてありますが、壁画に描かれた四神図といえば高句麗様式です。玄武、青龍、白虎、朱雀の四神を描くのですが、これらの名前を冠した会津少年兵部隊のうち、白虎隊の悲劇がよく知られるようになり、白虎という名称は広く知られています。四神図は鉱物系顔料を漆で練り上げた貴重な顔彩を大量に用いて描かれるのですが、人間の身長に近い大きさの絵を一点のズレも迷いもなく一気に一筆書きで描かれた玄武に対面した時、人間業ではない神聖な世界に飛び込んだことに驚愕しましたが、右横にある青龍もまた、あまり神々しい存在にただ立ち尽くすのみでした。これ、キトラ古墳ではなく大陸や半島の高句麗古墳を訪問した時の話です。
北が黒、東が青、西が白、南が赤、というのは高句麗だけの特徴ではなく遊牧民に広くみられる概念です。世界で初めて馬を乗りこなしたスキタイ族の本拠地コーカサスからみて、北にあるから黒海、南にあるから紅海です。黒海は深いブルーが美しく、土砂が流れ込まない紅海は透明な水色というどうみても黒や赤には見えない海ですが、四神の考え方からつけられた名前です。 かつては青海と白海もあったのですが、今はすっかり地形がかわり、大きな湖も消失してしまいました。
キトラ古墳も高松塚古墳もどちらの宿星図も、かつては精度はそれほど高くないと考えらえていました。微妙にずれている、と。ところが、これが北緯38度付近で描かれたものと考えれば極めて正確であることがわかりました。大陸や半島時代に描いたいたものを日本でも同じように描いたということでしょうか。京都の治水をはじめ、古より大きな影響力をもった加茂氏。鴨川神社の加茂氏です。加茂氏の第一流の直系の方からお聞きした話ですが、高句麗時代は天の意を地に伝えることが政ごとの要で、加茂氏の祖先も高句麗時代は天文を読んでいたそうです。ところが、本質を理解していた先人達と異なり、「やり方」をノウハウ化して後世に伝えるようになり、だんだんと精度が落ちていったとおっしゃります。キトラ古墳も大陸時代の記憶で書いたのではないでしょうか、と。加茂氏に関してはその後、ノウハウと現実の天体の動きのズレが大きくなっていき、とうとう日食の日にちの予測をはずしてしまい、以来、権威は地に落ちてしまったというおっしゃいました。