(前回からの続きです)
徳川時代に終わりを告げ明治時代に突入していく最大の山場である軍事クーデター「鳥羽伏見の戦い」。 徳川将軍慶喜自ら率いる徳川軍が島津陣営に攻撃をかけ、決戦の火蓋が切られ、徹底的に戦うと檄を飛ばした夜にはよりによって米軍艦艇に保護されて将軍と僅かな供回りだけが大阪湾から逃げ出し、そこには英東洋艦隊の主力艦が大阪城に砲口を向けている、、、
将軍様仰天の行動により一気に徳川軍は崩れ、一度逆転した形勢は二度と戻ることなく、新政府軍は各地に軍を進め軍事クーデターを完成させます。
徳川将軍の行動理由は今となっては特定困難ですが、状況としてはかなり見え見えです。
徳川将軍といってもこの人、たった一年将軍職についただけ。 その間一気に討幕側が勢力を得ます。
一橋家に養子入りしてからの将軍職とはいえ、元の出自は徳川御三家水戸家から出た唯一の将軍様。この水戸出身の将軍実現を後押ししたのは福井松平春嶽、禁裏では岩倉具視、大名では島津斉彬らです。水戸の徳川家も含め討幕派の権化のような人たちが何とか一橋公を将軍職につけようとし、そうさせるかと徹底的に対抗した井伊大老派の鬩ぎ合を軸に幕末の政情は動いています。 双方、暗殺や変死あるいは病死などで首謀者や関係者が次々に倒れ15代慶喜将軍誕生と共に一気に軍事クーデターと内戦によって明治時代へ移行します。
薩長圧勝の状況を作った功労者は直ちに徳川家臣内部の討幕派勝海舟に命じ江戸城を薩長に明け渡せ、と。勝海舟と西郷隆盛、かねてより親交の深い二人には江戸城開城そのものは交渉するまでもないデキレースですが、これで徳川方に納得しない者がでるのをどうするかは重要課題です。 徹底抗戦を主張する志ある者をまとめたのが勝海舟と海軍伝習所時代の同窓榎本武揚。東海道を艦隊で急襲、薩長の兵站を断つとしながら皆を北海道へ連れ出し、大半が五稜郭と運命を共にします。
(続く)