藤井真則のブログ

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2020年08月23日

  

えとせとら

放送されてから時間がたってしまいましたが、録画を拝見しました。

 

第一話と合わせて、日本の歴史を世界史の重要な要素として観る、という視点で描かれていますので、ぜひ、今後も、この方向で年代を広げるなり、深堀りするなり継続して番組制作に取り組んで頂きたいです。

 

何せ、学校では日本の歴史は日本史、手漕ぎの小舟で渡れる朝鮮半島を含め日本列島以外は全て世界史で教え、まるで日本がほとんど世界と関係ない歴史を歩んできたようなストーリーですので、今回のような企画は大歓迎です。

 

番組ではイスパニア帝国のフィリペ二世と豊臣秀吉の奇妙な因縁、日本を征服する尖兵として乗り込んだ宣教師が、日本をして世界最大の軍事大国であるとその実力を認め、この国をキリスト教国化しながら大国、明を征服させ、そして実際、明を攻略する戦力はあると判断し、明の富をわが物(イスパニアの)にしようと目論んだこと、秀吉亡き後もキリスト教の布教容認を条件に大阪城方に味方しキリシタン大名や兵士の動員協力を行う一方、家康側はオランダ商人と組み、長射程の大砲を購入して大阪城の天守閣を遠方から砲撃し、冬の陣の有利な講和に持ち込んだ、など、イスパニアやオランダの日本への介入について重要トピックスをかいつまんでいました。また、国というよりも商人が集まり世界最初の株式会社と言われる東インド会社を創立したオランダ人は、日本が大量に産出していた銀を買い付け、強力な資本をバックに勢力を伸ばし、更に家康の了解をとりつけ、日本人傭兵部隊を雇って日本製の武器で武装させ、イスパニア軍を撃破、今日のインドネシアに相当する蘭印(蘭領インドシナ)をイスパニアから武力で奪い取り経済基盤を確立した、という、あまりTV番組には登場しない場面も紹介していました。東インド会社が大きくなってからの資料は沢山、出版されていますが、初期のころのものは少ないですから、いいところを突いてきたと思います。

 

日本兵がインドネシアのオランダ領化を手伝い、番組には登場しませんが、皮肉にも今度は、第二次世界大戦において日本軍が蘭印を攻略、そして大戦後、旧日本軍兵士が部隊ごとボランティア参加によりインドネシア独立運動に参画し、インドネシアの植民地脱却を支援することになります。

 

イスパニア帝国は陽の沈まない帝国、ヨーロッパの東の端から西の端までを領有していたという意味ですが、ヨーロッパでは、1558年に即位したエリザベス女王が統治するイングランドを除いて、全てが帝国領でした。名目上の国家元首という立場で、各国王を兼ねていたという構造ですが、それでも戦争となれば、各国が兵を動員し参戦してきていますので、ただの名目だけの元首ではありません。また、エリザベス女王の先代であったメアリー一世はイスパニア帝国フィリペ二世の一応がつきますが、奥さんでしたので、エリザベス女王の即位はイスパニア帝国から覇権がシフトしていく象徴的なイベントです。 日本では、エリザベス女王即位の4年前に、秀吉が信長に仕えています。

 

エリザベス女王が台頭するにつれ、イスパニア帝国領内ではエリザベス女王の財力を支える勢力と同根の勢力が拠点とするネーデルランドで反乱が始まり、イングランドはこれを支援し、陽の沈まない帝国に本格的に刃向っていきます。

 

1580年、ヨーロッパで大きな資本の移動があり、翌1581年、資本力を背景に商人連合が結託したネーデルランド連邦共和国が独立宣言を行い、いよいよ陽の沈まない帝国の足元に大きな火種が噴き上がります。その翌年、日本では本能寺の変が起こり、秀吉が天下人への第一歩を踏み出します。

 

イスパニアを利用しつつ、ある程度の自由も認めた信長よりも、というよりまともに敵意をむき出しては敵対勢力に資金や武器を供給するので保護するふりをする必要があったという背景もありました。信長時代より国内基盤の整備が進んだ秀吉は、外敵排除をより鮮明に打ち出し、本能寺の変から5年後の1587年には九州のキリシタン大名を討ち、バテレン追放令を発布します。この時期、秀吉とイスパニアの緊張感は一気に高まりますが、ヨーロッパでもいよいよネーデルランドの独立運動、つまりイスパニアからみた反乱は手がつけられなくなり、イスパニア本国から精鋭陸軍部隊をオランダへ派兵することになります。世にいう「無敵艦隊」アルマダの戦いの勃発です。

 

ここで突然、話が細部に入り込みますが。「無敵」というのは英国側が皮肉を込めて呼んだ名前で、実態はまともな艦隊とも呼べない代物でした。当時、イスパニア本国には大西洋の荒波を乗り切る「ガレアス」戦艦はありませんでした。兵員や大砲が少なく、荷物を沢山つめる「カラック」という大型の「輸送船」で世界の植民地を結んでいたほか、地中海の穏やかな海で戦う手漕ぎの戦闘艦ガレー船の大艦隊はもっていました。これがレパントの海戦にも参加していました。レパントの海戦はオスマントルコの大艦隊とイスパニア・ローマ教皇軍・ベネチア連合軍が、カソリック・イスラム両勢力の地中海での制海権をかけた決戦を行ったものです。ベネチアの木造の巨大戦艦6隻がトルコ艦隊を艦砲射撃で蹴散らし、ちょうど同じ時期に日本では木津川口の戦いが行われ、信長軍の鉄の装甲戦艦6隻が超長銃の射撃などで毛利・村上水軍連合艦隊を撃破しました。鉄で装甲した戦艦は世界初です。何かと日欧、奇妙に様々なことが符合します。イスパニアが秀吉に対して、明を攻めないか、うちの戦艦部隊を貸すけど、と申し入れたのは、このガレー戦です。ガレー戦は荒れる北大西洋では役に立たず、イスパニア陸軍は陽の沈まない帝国各地から寄せ集めた外洋向きのガレアス戦艦(手漕ぎのガレー船と異なり、帆走が基本、船体もずんぐり丸く積み荷を多く積載できる上に、漕ぎ手の人数がいない分、食料補給なしでの長期航海も可能)をかき集めました。 この船酔いする陸軍兵士が乗り込んだ急造無敵艦隊は嵐の中、「道に迷って」目的地とはあらぬ方向へ迷走し、ほとんどが遭難し全滅します。無敵艦隊といいますが、なるほど確かに、それまで一度も負けたことはありません。存在しなかったのですから。また、英国艦隊に負けたというより、自分で迷子になっただけですから、戦闘で負けた船はわずかしかありません。一方の英国にも海軍など存在せず、有名なドレーク提督をはじめ、名だたる海賊衆が集まった烏合の衆でした。エリザベス女王は1ポンドもくれず、単に海賊行為を認める「私掠許可書」(通常、これを買うのに大金を払います、そして海賊行為によって自分で稼げという書面です。これなしに海賊行為をやると「犯罪」として縛り首です。)を発行してくれただけで、海賊としては「収入」欲しさに、イスパニアの資産を強奪しようとします。まず、エルサレム、ローマに並ぶカソリック三大聖地サンチアゴ・デ・コンポステーラ周辺、特に港のあるラ・コリューニャに略奪行為を働いていいという「女王様の正式な許可書」をもらったのを皮切りに、暴れる海賊に業を煮やしたイスパニア軍が、重い腰を上げることになります。エリザベス女王が強気でいれたのはそれまでイスパニアを支えていた資本を今度は自分がバックにしたということと、海を隔てているので陸軍国のイスパニアは海賊の権化のようなブリテン島に手を出しにくいという面もありました。 世界に植民地を広げたイスパニアですが、基本的に陸軍国です。侵略者たちはわずかな人数で策謀を巡らし、世界各地を陥れていったのです。挑発されたイスパニアがいよいよ艦隊を繰り出しますが、海賊にとっては宝の山が狩場である海に出てきたということです。艦隊が積み込んでいる財宝を掠めるか、イスパニア貴族を捕縛して身代金を取ることを目的に襲撃を繰り返しました。ところが、相手は素人といってもそこは戦艦部隊、さすがに分厚い装甲を施したガレアス戦艦が大口径のキャノン砲を撃ちまくると、足の速さが身上の海賊御用達フリゲート艦が迂闊に接近することもできず、遠くから口径は小さいものの射程が長いカナバリン砲を撃ちかけるだけです。両軍ほとんどまともな戦果をあげていません。これが「無敵艦隊敗れる」の実態です。その後、フィリペ二世はガレアス戦艦隊を編成、大西洋航路の船団護衛につけます。襲撃がむつかしくなった海賊たちはカリブ海への職場を移します。人気アニメ「ワンピース」やそのままの名前の映画「パイレーツオブカリビアン」はこの時代の背景に一致します。両作品に登場する悪より悪徳な「海軍」はイスパニア帝国の凋落と入れ替わりに台頭し、海賊衆を追い払った東インド会社の私設艦隊です。

 

秀吉は明を従え、ヨーロッパへ攻め込む、フィリペ二世にも首を取りに行くから洗ってまってろ、という「国書?」をイスパニア、マニラ総督に送りつけています。明を攻略する軍を通過させるように言っただけ、どか、諸説ありますが、ともかく朝鮮半島で戦闘となり、明の大軍とも激突します。

 

1596年には第二次朝鮮出兵「慶長の役」がはじまり、この年、資本が逃げたイスパニア帝国、かつての陽の沈まない帝国は「デフォルト」支払い不履行を起こします。国の倒産のようなものです。そして、文明が衰える時に必ずといっていいほどやってくるもの「疫病」が蔓延します。かつてイスパニアの侵攻を受けたインディオを壊滅させた疫病が、国力が衰え始めたイスパニアを襲ったのです。ペストの流行が広がりました。またここの時期、中国では秀吉軍を迎撃した明が国力を消耗し、満族ヌルハチの台頭を許します。

 

二年後。

1598年 9月13日 フィリペ二世 没

同年  9月18日 太閤豊臣秀吉 没

 

1600年には大きな事件が起こります。

英国東インド会社創立、そして関ケ原の戦いです。

1602年には世界で初めての株式会社ともいわれるオランダ東インド会社が創立されます。

オランダ東インド会社は本国はフランスに占領されている情けない小国ですが、アジアで大いに財を成していきます。 1609年には稼ぎ頭の重要拠点、平戸に商館を開設します。

 

1614年 大阪城冬の陣。オランダから買った長距離砲が活躍し、家康は有利な講和を結びます。

1615年 大阪夏の陣

1616年 ヌルハチ後金建国

1619年 オランダ東インド会社、ジャカルタに総督府設立

 

佐渡は金山が有名ですが、この時期、世界最大の銀山として知られていました。銀山奉行として採掘事業を手掛ける近江商人、徳川家、オランダ商人、明の商人、彼らは銀の取引で莫大な財を成します。この時期、世界の銀の3分の1が日本産ともいわれています。日本の銀をヨーロッパに持ち込んだオランダ東インド会社は強大な資本を手にし、一大勢力にのし上がります。徳川家はヌルハチの攻勢に追い込まれる明を支援しようとし、オランダ東インド会社は日本の銀の取引を独占するため、これを叩き潰そうとします。大阪城夏の陣をもって、戦国時代が終わりを告げると、それまでの軍事力の残存エネルギーが大阪方や西国を中心にくすぶっていました。徳川家はこれを明の支援に投入することを考え、オランダ東インド会社は自社の傭兵としてイスパニアの領地攻略に向け、かつ明が滅亡すれば取引独占の両得となります。

 

1637年年末、島原の乱勃発、翌年には制圧されますが、徳川家は、島嶼部の海上封鎖や艦砲射撃にオランダ東インド会社の海軍部門の力を借りることになります。

 

1644年 明滅亡、清が中国を統一します。そしてこの間、日本の戦国残存軍事力を集結、徳川家の許可を得たオランダ東インド会社は日本人傭兵部隊に日本で大量生産された良質の武器をもたせ、今日のインドネシアに相当するほぼ全域でイスパニア軍に大攻勢をかけ、制圧、世界に覇を唱える巨大企業として帝国から世界史の主導権を奪っていきます。

 

 

 

 

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