2009.2.22.
今日は、2月22日。聖徳太子(622年2月22日没)と太子の生涯の師である高句麗高僧恵慈(623年2月22日没)の命日です。
この二人が生きた時代は、まだ、大和(西日本+東海・関東など)と越の国(中越地方)、日本(津軽、今日の東北地方、北中部)、琉球などはそれぞれ別の国でしたが、二人が培った国創りの精神は、やがて、現代につながる統一国家日本の礎となります。
「和を以って尊しと為す」が強調されますが、聖徳太子が体得した国創りの精神の源流、高句麗の建国精神は、周囲を大敵に囲まれ、絶望的な状況から先手、先手と機先を制し、決して諦めることなく活路を拓いた激しい闘志と戦略性をもつものでした。
国が衰えながらも、300万の隋の大軍を壊滅させた高句麗軍団。その智恵や優れた戦略性は、脈々と日本人に受け継がれ、以前、書かせていただいたように、戦国時代や、幕末、日露戦争でも如何なく発揮されることになります。
では、7世紀の古代、300万の大軍団。どうやって、未曾有の大敵を壊滅させたか。
まず、徹底して、水・食料源を断ちます。田畑を焼き払い、森や林に火を放ち、井戸には毒を入れます。
清野作戦といいます。
遊牧民は、焦土作戦と称し、敵軍の侵入を受けると国土の草原を焼き払い、敵が利用できなくします。ペルシアの大軍に侵攻された草原の覇者スキタイ族をはじめ、ナポレオン軍やナチスの侵入を受けたロシア・ソ連軍も同じ焦土作戦を展開しました。
高句麗はもっと、徹底して、敵にとっての、あらゆる軍需物資調達の可能性を排除します。
通常、農民は、敵が攻めてくれば、少しでも大過なく戦争が終わることを望み、敵に兵糧を差し出してでも媚を売り、或いは銭を得て、領主が挿げ変わったら、新しい領主の支配下に組する、こういう行動を取ります。日本でも、高句麗式の総動員体制を取った古代吉備国の例があり、城砦システムも完全に高句麗様式ですが、戦国時代には、甲斐源氏とか、一部を除けば、世界のどこにでもあるような、小さな山城に籠もる武装集団と、領主交替を待つ農民、という図式になってしまいます。
高句麗の民は、自ら進んで個人の私財を焼き払い、或いは、戦争に使えるものは城に持ち込み、全員が戦力として、国難に立ち向かいました。実際、全ての民が篭城できるよう、世界に類例を見ない巨大な城塞システムを構築していました。日本の戦国時代の山城は頂上付近や稜線を囲むように城壁を巡らし、一部の武装集団だけが籠る構造がほとんでした。高句麗の山城は稜線に沿って城壁を巡らし、広大なエリアを囲みこんで内部に広い盆地を確保します。こうして山で囲まれた盆地という天然の要害を利用して、更に囲んでいる山々の稜線のその上に高い城壁を巡らせるのですから、攻撃するのはかなり困難になり、また内部の盆地に周囲の住民を尽く収容し、食料や水も確保できる工夫があります。東、北、西の斜面に陽が当たり上昇風が発生し、南は河に面して川面をそよぐ涼しい風が城内に吹きわたります。実際、高句麗古城、丸都山城の中心に立つととても心地よい風が吹きそよいでいました。南面は河を防御線にした上、二重の高い城壁を築き、城壁と城壁の間の全く無防備となるエリアを敵が侵攻する際、大型の弩弓などを浴びせます。弩弓はアーチェリーのようなものですが、大勢で力を合わせてひくことができるため、どんな屈強な男一人がひく弓よりもはるかに強い弩級を五人の女でひいたとされています。
隋の煬帝軍の侵攻に対して、まず、盟友「靺鞨」(まっかつ、マグガル族)が、7万の軍勢で、300万の軍団に立ち向かいます。靺鞨は、今でいうウラジオストックなど、沿海州方面で栄えた遊牧民で、今日の札幌付近にも殖民していましたが、アイヌとは全く別系統の民族です。交流の盛んな日本(津軽の国)が、安東水軍の祖先を動員し、大量の軍事物資を送ります。高句麗では、軍馬の調教所を、戸(へ、と読みます)と称します。津軽から関東にかけて、一戸、二戸、三戸、、八戸、十四戸、坂戸、、、 など、沢山の戸があり、大量の軍馬を養っていました。また、強い弓をつくる壇(まゆみ)の木は良質のものが日本列島に産出し、矢をつくるのに最適な矢竹は、大和の諸地域でつくられ、特に矢竹は、大陸や半島では入手困難な貴重品でした。
靺鞨の主力は騎馬隊。隋王朝を築いた鮮卑族自身は遊牧民であっても、隋軍団の大半は徴兵された異民族の歩兵部隊です。 騎馬隊は時と場を自由に選び、有利なら戦い、不利なら退却します。補給部隊を次々襲われた隋は、大半の補給物資を一箇所に集めてしまいます。そこへ、満を持し、高句麗騎馬軍団が突然現われ、夜襲をかけ、火矢を放って兵糧を焼き払い、一瞬にして
姿を消します。
しょっぱなから、隋は苦境に陥ります。
そして、随分と小さくなってしまった高句麗の最前線、遼東半島の防衛線まで、隋の先鋒が到着。日露戦争で、日露両軍が戦った戦場です。
そこで、隋は、見たこともない、強力な城塞システムに数を頼りに猛攻をかけますが、微動だにせず、いきなり膠着状態に陥ります。
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