藤井真則のブログ

このブログはリンパ球バンク株式会社の社長時代に、会社社長ブログとして会社HP上に掲載されていたものです。ちょうど還暦を迎えるタイミングで社長の責を後任に譲り一時は閉鎖しておりましたが、再開を望まれる方もいらっしゃるため、別途個人ブログとして再掲載するものです。ANK療法という特定のがん治療に関しては、同法の普及のために設立されたリンパ球バンク株式会社のHPをご覧ください。
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2011年12月29日

  

えとせとら

2011.12.29.
 
 
(前回の続きです)
 
北朝鮮がなぜ、あれほど異常でありながら
存続できるのか。
 
当然、背後のパワーがあるわけです。
 
誰が北朝鮮を支えているのか。
 
常識では中国ということになっていますが、
何といっても、北朝鮮のサポーターは米国です。
 
そもそも誰が北朝鮮をつくったのか。
現状を理解するには、ルーツを明らかにすることです。
北朝鮮をつくったのは、ほかならぬ米国です。
 
 
北朝鮮などという国は、元々、存在しなかったのです。
 
第二次世界大戦後に人為的につくったのです。
 
つくったのは連合軍ということになるのですが
実質、米国です。
 
日本は敗戦国、中国は国民党と共産党に分かれ分裂し
朝鮮半島は、日本の統治下からは脱出することになりましたが
では、独立したのかというと、そうではありません。
(台湾は米国が軍事、財政的に支援した国民党、
 中国は、ソ連が支援した共産党が支配した国)
 
南北に分割されたのです。
 
しかも、歴史的にみて、北朝鮮という国が存在したのは
むしろ例外的です。 また朝鮮半島が一つの国というのも
中世の高麗(こうらい、高句麗とは全く別の国)以降です。
北朝鮮=高句麗というような誤認も見受けられますが、
高句麗は、もっと巨大な国で、発祥は
遼寧省五女山、第二の都は吉林省、最後に都をおいたのが
平壌ですが、それは大分、後になってからのことです。
800年続いた東アジアでは最長、最大の国で、その領土は
満州を中心に華北、モンゴル、朝鮮半島北部に及びました。
早稲田大学の調査隊がアフガニスタンの高句麗遺跡を
調べたことがありました。同行された幻冬舎の編集の木村氏に
直接、問い合わせましたが、まぎれもなく、高句麗遺跡で
あったと、おっしゃいました。アフガニスタンが高句麗の
領土であったわけではないでしょうが、ペルシアと交流し、
ユーラシア全体に広く活動していた世界国家だったのです。
 
隋は、満州の遊牧民である鮮卑族がつくった国で、
一時、強盛となり2~3百万もの大軍を動員するまでに
至った、古代史上、最大の軍勢を動かした国ですが、
30年しかもちませんでした。高句麗遠征に完敗し、
あっという間に滅んだのです。唐もまた、初代皇帝自ら
高句麗遠征に出陣し、敗戦の上、戦死したのです。
中国には、高句麗ほど、長期間、栄え、高度な文化を熟成し
広大な領土を維持し続けた王朝はありません。
北朝鮮の金一族は、自分たちはあの偉大な高句麗の末裔と
称していますが、高句麗人が、漢民族の伝統である金などという
名を名乗るはずはありません。
 
北朝鮮の南の国境は、38度線ですが、北の国境もまた、
古代高句麗のど真ん中の動脈である鴨緑江で、中国と北朝鮮に
分断されたのです。 これは高麗(こうらい)以来の伝統でも
ありますが。 隋も唐も満州の民族が興した国、
新も金も、そうですが、モンゴルや元は言うまでもなく
遊牧民が創った国です。清も満州人の国です。
漢、後漢、明は漢民族の国です。
ところが、第二次世界大戦後、満州は中華人民共和国に
組み込まれ、鴨緑江で朝鮮半島と分断されます。
(日本も満州国と朝鮮半島を分けていましたが)
満州には、漢民族はもともと、少なく、満州人と朝鮮族が
多数、居住してきましたが、ここをまず分断したわけです。
その上で、朝鮮半島をさらに南北に分断したわけです。
インド、クルド族、バルカン、コーカサス、中央アジア、アフリカ諸国、世界中
どこをみても、歴史的背景や民族的分布を敢えて分断する
ように国境線を人為的にひき、諸民族のパワーが互いに
反目するよう典型的な分割統治政策に基き、第二次世界大戦後の
体制がつくられたわけです。
北朝鮮は、世界各地で実施された、諸民族が分断、対立させ、
一丸とならないようにうちこまれた楔として
つくられた国です。
 
北は共産側、南は西側に組み敷かれ、双方の
思惑に翻弄されながら、対立させられたのです。
 
 
東西冷戦の代理戦争として朝鮮戦争が実施され
韓国が釜山周辺まで、ほぼ全土が蹂躙されてから、
米軍が上陸、こんどは北朝鮮を
完膚なきまでに叩きます。朝鮮半島は北から南まで
とことん、戦禍にまみれてしまったのです。
そこへ、中共軍20万の歩兵部隊が、智将、林彪将軍に
率いられ、歩いて鴨緑江の橋を渡ります。
空爆されれば一環の終わりですが、堂々と歩いて大軍が
渡り切りました。
 
連合軍最高司令官マッカーサー将軍は、なぜ、この林彪の
部隊を空から攻撃しなかったのでしょうか。
 
マッカーサー将軍は回想録の中で、ぼやいています。
「林彪は、完全な安全を保障されなければ、のこのこ
20万もの歩兵を敵の目の前で歩いて橋を渡らせたりしない。
彼は、完全な保障を得ていたのである。林彪軍の安全を
保障できるのは、世界でたった一つしか存在しない。
それはワシントンである。」としています。
実際、鴨緑江から8km以内は、如何なる砲爆撃も
行ってはならない、と、ワシントンから全軍に厳命が
出ていたのです。こうして、中共軍は米軍上層部の保障のもと
無事、無傷で北朝鮮領に進駐し、マッカーサー率いる連合軍と
壮絶な消耗戦を展開し、38度線で、絵に描いたように
膠着状態に移行、朝鮮半島を完全に南北に分断します。
 
その後、基本的な構造は何も変わっていないのです。
 
(続く)
 
 
 
 

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