このブログはリンパ球バンク株式会社の社長時代に、会社社長ブログとして会社HP上に掲載されていたものです。ちょうど還暦を迎えるタイミングで社長の責を後任に譲り一時は閉鎖しておりましたが、再開を望まれる方もいらっしゃるため、別途個人ブログとして再掲載するものです。ANK療法という特定のがん治療に関しては、同法の普及のために設立されたリンパ球バンク株式会社のHPをご覧ください。
本ブログは、あまり標準的ではない特殊な治療の普及にあたり、「常識の壁」を破るために、特に分野は特定せずに書かれたものです。「常識とは、ある特定の組織・勢力の都合により強力に流布されて定着したからこそ、常識化した不真実であることが多い」という前提で書かれています。
TOP > 明治維新の実態(12) 黒船から太平洋戦争へ
明治維新の際に米国が日本を占領しなかったのは南北戦争で忙しかったからとされていますが、正確にいうと「後回し」にしたけです。
南部は黒人奴隷に綿花を栽培させ原綿を英国などに輸出していました。若い黒人女性を小さな檻に閉じ込め、屈強な男性に種付けさせて労働力の「再生産」も行っていました。
五大湖周辺の水運に支えられる北部工業地域は機械力に物を言わせ最後は南部を圧倒。ミシシッピ川の水運を利用して南部から工場労働力として黒人を吸い上げます。農業は機械力により少人数の白人が大規模生産を始めます。 今日でも米国の小麦、トウモロコシ、大豆の生産量は圧倒的です。
金融資本をバックに鉄道、水運、石油事業者が持ち株会社方式で大合併を遂げ、巨大な石油産業として勃興します。石油を燃料に機械を動かすという当時としては画期的と考えられた時代が訪れたわけです。
一方、食用油は億トン単位で生産される大豆を搾油し、搾りカスは飼料とします。
黒船来航時にはクジラを捕り、ぶつ切りにして煮て浮いた油を集める、これが産業用・食用の主力の油でした。捕鯨産業は花形だったのです。クジラの十字路である小笠原には米国捕鯨船が立ち寄り、捕鯨基地として便利な伊豆・下田の開港を決めた日米修好通商条約が締結されました。 ところが産業転換が進み捕鯨産業が斜陽化、一時的に米国の日本進出の動機が後退します。
後に工場労働には中国人苦力(クーリー)の方が向くと中国から米国へ大量に人身売買を進めたデラノ財閥が台頭します。トップのルーズベルトが大統領になり、日本は原爆数十発で皆殺し、中国に工場を沢山建て中国人をこき使って米国の工場にしようとハルノートを突き付け日本を戦争に引き込みます。 沖縄戦の最中、原爆投下公式決定と上海へ侵攻する直前、急死。2発は投下されましたが日本はそれ以上の事態を免れます。米軍は日本を米国の工場にすると占領政策を転換します。