藤井真則のブログ

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TOP > 日本人の魂 (9) 倭人の正体

2016年12月10日

  

えとせとら

 

日本国は、単一民族国家であるということにしてしまったのは、せいぜい明治時代です。

 

それまでは、様々な民族が互いに独自性を守りながら生きてきました。

 

韓国人は、当然、第二次大戦後に発生した概念です。

大戦前に、韓国という国はなかったのですから。

 

でも、特定民族を表す意味での北朝鮮人という言い方はしません。北朝鮮という国の人という意味で北朝鮮人ということはありますが、民族としては朝鮮人というイメージです。

 

中国人というのも、ごく最近の概念です。

 

清という国は、遼寧省桓仁県五女山城にて挙兵した太祖ヌルハチが興した国ですが、満族の王朝で漢族はかなり明確な差別を受けていました。

 

両者を一緒に中国人とは呼びません。

 

中華人民共和国が誕生したのは戦後ですが当初、漢族の比率は多めにみても4割でした。もちろん正確な数字はわかりませんし、そもそも総人口の数字からしてあてにはなりません。 あくまでよく言われている話ということですが、漢族が人口爆発を起こして急増し今日では、ほとんど漢族とされています。

実際には、東北三省に行けば、満族や朝鮮族を称する人々がたくさんいます。

 

民族は、時代によってうつろい、融合し、独自性を強めたり、弱めたり、そもそも個人差もあり、今一つ、とらえどころのない曖昧な概念ではありますが、そうはいっても、特定民族共通の特定行動様式であるエートスというものは、やはりあると考えられています。

 

日本列島の歴史においても氷河に覆われたユーラシア大陸にあって珍しく真水が豊富にあり、世界中から人々が集まった大陸と陸続きだった時代(BC60~BC56世紀ころ)、しばらく人がこなかった孤島の時代、海路、人々が集まり和歌山県に人口が集中していた時代(BC30世紀ころ)。 BC6世紀からポチポチと始まり、BC3世紀ころピークを迎える倭人の襲来(弥生時代)、人口の10倍規模の大量移民が流れ込んだ時代(7世紀、高句麗、百済遺民の大量流入)を経て、それ以後は、大きな移民はありません。

 

現存する日本人の多くのルーツは、高句麗、百済にあり、一部の人は倭人にあり、さらに一部の人は、倭人襲来前から日本列島にいた人という理屈になりますが、人は動いたり混血したり、文化を変えたり、特定の集団の人口が急増したりしますので、一概にこうだ、ということは言えません。

 

 

さて、日本列島に大挙、襲来し、西日本を席巻、そこにいた人々を尽く食糧にしてしまった倭人は、仲間同士でも共食いを繰り広げたようですが、当時は、全地球規模の寒冷化による異常な食糧危機状態であり世界中、民族大移動、大量虐殺、日常的な食人が横行していたどうしようもない暗黒の時代です。

 

西日本でも、1世紀になると、食人の習慣は一部の儀式を除いて一般的ではなくなっていき、多くの人々が自然死する時代を迎えています。

 

倭人の食糧調達の主たる手段は水田でのジャポニカ米の栽培です。ルーツである揚子江中流域では今日でも美しい棚田が見られますが日本や朝鮮半島では堆積平野にも、水田を開墾するようになります。 田んぼでも使える牛を多用し牛肉もよく食べます。 好物は、当たり障りのないところでいうとすき焼き、しゃぶしゃぶ です。 日本の代表料理として、外国人に勧める料理といえば実際に一番、よろこばれるのは鉄板焼きですが、すき焼き、しゃぶしゃぶ、寿司、てんぷら、というのが相場でした。てんぷらはポルトガル料理であり日本では永く、牛肉は食べなかったのに、なんで、すき焼き、しゃぶしゃぶが日本料理なのか。

 

倭人の基本食の一つであり、大陸や半島では食べ続けていたのです。ヨーロッパでは、しゃぶしゃぶはフォンデューシナール(中華風フォンデュー)と呼ばれヨーロッパに定着した代表的中華料理の一つです。 日本でも、倭人の影響力が強くなった時代には、すっと大陸から入り込んでくるのです。

 

寿司は倭人の代表的保存食であり、大陸では、ごく最近まで食されていました。寿司のルーツは日本では大っぴらに語られませんが、日本書紀にも登場します。

大津の鮒ずしは、大津京が日本の都だった時代、時の政権は倭人政権だったので、寿司を食べていたのです。 あとから、食材を、かなり問題のあるものから鮒に変えたため、大津から鮒ずしが、寿司のルーツとして広がっていったことになっているのですが大陸では、当たり前に寿司を食べ続けていました。 もっとも、寿司ではなく、酸という字を使います。

 

日本書記では、中大兄皇子や鎌足らが、蘇我山田麻呂を寿司(酸)にして食べてしまった、等、重要な政変に関連する人物の素性を表す際に、寿司が登場することがあります。

 

倭人は、農耕を生業とする民族でしたから基本的に残虐な儀式を執り行います。

現代人は、米はスーパーやコンビニで売っているものだと思っています。 一部の研究者だけが、あんなものどうやって品種を確立したのかと仰天しています。

今日、日常的に食べている植物の大半はどうやっても食べようがない原種から、気の遠くなるような複雑で難しく時間がかかり中間プロセスでは何の役にも立たない雄性不稔種をつくるなどなど最初からどうやればいいかを知っていないととてもできない工程を経て品種改良され栽培植物となっているのです。

神業としか言いようがなくやっぱり人類の進化には何か外からのインパクトがあった、、、

という話に真実味を醸し出すのです。

 

古代人は、自分たちの能力では田んぼをつくる技術を開発したり野生のどうにも食えない原種を人間が食べることができる栽培植物に変えてしまうような知恵がないことはよく分かっていたようです。 高度な鉄の技術や測量技術、木工・土木技術を駆使しないと水田の開墾はできません。 あれ、大量の良質な鉄器がいるのです、原野から水田つくるには。

そして、自分たちでは到底、想像もつかないような複雑な工程通りに、農作業に従事し、冬、飢えて死んだりしない穀物を得られることに、感謝の儀式を執り行っていました。

 

現代人は、天候に左右される原始的な農耕の時代には御てんと様が、ちゃんと日光を注ぎ、程よく雨も降り台風もこないで、、、 と、単に天候がよき収穫をもたらす都合のいいものになってくれる様にと祈りを捧げていたんだと思うようですが、そもそも、栽培植物の品種確立や開墾を含めた農法そのものが、理解を超えたものであり、これらをもたらしてくれた何者かに感謝の気持ちを表したのです。

 

現代では、勤労感謝の日などと言いますが元は、謝肉祭だったのです。

 

「何か」に感謝して、自分たちの肉を捧げたのです。

 

もう少し正確に言うと自分たちの心臓を捧げたのです。

 

やがて生首を捧げるようになります。

 

古い時代の正教のフレスコ画では聖人は首だけが描かれ、たくさんの首に羽が生えて黄金の光のリングが頭の上で輝いているように描かれています。世界各地の「聖なる」絵を実際にみてきましたが一応「生首」はニコニコしていて聖なる存在という風に書いてはあるのですが、どうみても生首が空を飛んでいるので異様な感じはぬぐえません。 実際に聖人というのは自分の生首を捧げていたようです。 ヨーロッパのケルト人も修行を積んで聖なる存在に近づけたと考えられる人物は人望がないとダメなようですが、自ら進み出て認められると大樹の根本で首をはねられ、その首は大樹の枝にぶら下げられました。 「何か」によってもたらされた恵みに対するお礼としてです。 後世、19世紀のことですがクリスマスの風習が「発明」された際に、生首の代わりに光る玉をモミの木にぶら下げる習慣が考案され、今日に続いています。 キリストのお祝いになんで生首なのかと思われるかもしれませんが、そもそもイエス様は生贄として十字架にかかり「捧げられた」のです。

 

古代、世界各地で当たり前に見られた生贄の儀式。 流石に、それはいやだ、というものすごく当たり前の感情が強くなり、徐々に、一番、味が似ている牛肉を替わりにするようになりますが、砂漠の場合牛は極めて貴重であり、羊で構わないことにされていきます。

 

旧約聖書ではアブラハムが子のイサクの心臓を取出し、体の残りを焼き尽くして捧げる、つまり焼き尽くすというのは自分で食べるのではなjく、余すところなく捧げるということですが、現代人の感覚でいうと想像もできない理不尽な要求、古代人にとってはごく当然の要求を受け入れ、いざアブラハムが自らの子の体を裂こうとした時、お前の信仰は証明された、生贄にはあの羊を代わりに使えばいい、と示されます。 以来、牛は貴重、豚はそもそもあまりいない乾燥地帯では羊を人の代わりに捧げるようになります。 たとえ話なのではないのです。

 

倭人の場合、重要なのは収穫への感謝よりも田植え前の儀式です。

 

農閑期、5人組が遠征にでかけます。

 

そもそも倭人は、小さなうちから子供は親元を離れおおよそ年齢が近い男同士、女同士で共同生活を営みます。男組、女組に分かれて、互いに色仕掛けを掛け合うのですが、農閑期の「出撃」には悲壮感が漂います。

獲物を持ち帰らないといけないからです。

ご近所だと、血縁者の可能性が高いので遠征する必要があり、そうなると、完全な敵地となり自分たちを獲物として狙う敵の数が増えてきます。

獲物がなければまっすぐ、村に帰ればいいのです。

 

儀式が中止になることはなりません。

 

自分の首が使われます。営業成績が悪いと、文字通り、クビにされるのです。

 

持ち帰った獲物は、田植え前の決まった時期に決まった場所に建てられた高い棒の先に決まった方角を向いて、クビだけが捧げられます。 こうして、豊作を祈念するのです。

 

日本列島に押し寄せたころは儀式どころではない最悪の状況だったのですが、西日本に定着後も儀式は継続されました。

とんでもないお話が、民話や、中には今昔物語などで語られ、うちの母方も中国地方の真ん中ですのでとんでもな話が、代々、今日まで伝わっています。

その一つ、今昔物語にも登場する「白羽の矢」伝説が1695年、岡山市藤崎で実行された記録があります。 暴れ川であった旭川を鎮めるため、バイパス運河として百間川が穿たれ、その際、白羽の矢が当たってしまった沖田姫を埋めた場所には、今も、ボロボロの祠が残っています。

あれは見ただけで悲しい気持ちに沈んでしまいますが夜は絶対に近づきたくない不気味な真っ黒な祠で、如何にも、治水工事の要という水路の分岐点の先端にあります。

八つ墓村は、映画で有名になりましたが、小説や映画は戦国時代から後の話です。あれ、実話を元にしているのですがほんとの実話は、戦国時代より前、もっとえげつない儀式が執り行われていたのです。今では、村の名前も変えられてますが、その名に名残は残っています。

地元の人はいやでしょうから、名前は書きませんが。

 

さて、どう考えても、こういう民族が大和朝廷を打ち建てたのであれば、およそ平和で幸せな国にはなりそうにないですが3~5世紀、東アジア全体で、倭人は高句麗の大攻勢を受け圧迫されていましたので、日本でも大人しくしていたようです。日本列島ではもっとも巨大な遺跡が建造された時期ですが日本でも半島でも大陸でもどこであっても東アジア各地で徹底して書かれた歴史が消された時代です。

6世紀ころ、静岡県辺りまでが、「東北」地方でした。おそらく朝廷にとっては、外国だったのです。 8世紀に入って、俄然、東と北への侵略を激化します。 奈良時代~平安時代は、倭人の進撃の時代でした。 東北の豊かな鉱物資源、高度な探鉱・精錬技術、特に日本刀に代表される強力な武具や戦には欠かせない強い軍馬、美しい絹や漆、大量に産出する金や水銀など朝廷がほしがる高度な文明や文化、産物などが東北には沢山ありました。

戦争を前提にしないで、千年の計で森を育てる東北の人々に対し一夜にして森を焼き払う倭人が、人数を頼りに、執拗に攻撃をつづけ、いくら騎馬隊に完敗を喫しても、あくまでも侵略を続け、環境を破壊することで、追い詰めていったのです。

 

では、大陸の倭人はどうなったのでしょうか。

 

倭人は、大陸に沢山いたから、日本に攻めてきたのです。 弥生とか訳の分からない名前で誤魔化しても、倭人は大陸にも日本にもいたのです。

 

大陸に残った倭人が世界に影響を与えた大発明について書くはずが、別の話が続いていますが、それは次回に回すとして大陸の倭人の中から独特の文化・政治様式を打ち建てた一団が現れ、自らを、「漢」と称します。

漢字を発明した「夏」という国の末裔なんだという話を熱心につくり、漢字つくったから「漢」というイメージで、自分たちのルーツの正当性を主張し始めます。

 

今日では、揚子江中流域で棚田をつくり続ける元祖倭人はかなりマイナーな少数民族として、歴史の表舞台からは消されています。

 

やがて、日本の歴史からは、大陸の倭人は消され大陸の歴史では、「漢」が全面にでてきて倭人は徐々にフェードアウトし、さらに、中国人なる新しいイメージが定着してきました。

 

 

(つづく)

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