藤井真則のブログ

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TOP > 日本人の魂 (7) 輝ける古代日本4~5世紀の世界

2016年10月18日

  

えとせとら

大陸に残った倭人が

人類史全体にインパクトを

与えた発明について

書く予定でしたが

やはり、日本人の魂という

タイトルですから、

先に、日本が最も輝いていたはずの

4~5世紀について。

 

 

聖徳太子様ご登場のあとは

人物名や事件など、

具体的な話が

「日本史」の授業に

登場するようになりましたが

4~5世紀については

ほとんど教えられませんでした。

 

 

倭国大乱とか邪馬台国の卑弥呼の話から

豪快に飛ばして、いきなり聖徳太子様ご登場まで

ほとんどなんにも教えられませんでした。

 

それでも仁徳天皇陵の写真が載っていたり

これは、世界最大の古墳、

ま、あくまで面積がですが、

そういう注釈もあり、そういう名前の

物凄い人がいたらしい、、、

と思うわけですが

さっぱり、具体像が見えてきません。

 

食べ物にも窮した民の実情を知り

3年納税免除という逸話や

仁徳という文字からして

最高に素晴らしい指導者だった、そういう

イメージがわきますが。

逆に、「徳」がつくと

安徳天皇のように、壇ノ浦に沈んだ、とか

崇徳天皇のように、祟りまくった、とか

考徳天皇のように、奥さんを、中大兄皇子に

取られて(中大兄の妹ですが)、天皇なのに

遺棄された難波宮においてけぼりにされた、、、

ろくな話が伝わっていない文字でもあります。

聖徳太子も徳ですが、子孫である上宮王家は

ほとんど全員が焼き殺されたことになっています。

 

 

 

あの巨大古墳、できた当時は、海の中から

ポツンと突き出していたそうですが

 

大阪ですから、海外から船でやってきた人々に

 

どやっ と。

 

うちの国なめたらあかんで、と

一発、かましを入れる威容だったことでしょう。

 

倭の五王武巨大古墳群にしろ

仁徳天皇陵を含め、ほんとうのところ

誰の墓で、いつ、つくられたか、、、

となると、ろくに調査もされていないわけですが

一応、近い時期に、集中的に巨大古墳群が

つくられ、また、考古学調査によって

5世紀の初めには、桂川やら、京都の大規模河川改修

あるいは、運河造営の巨大土木事業が営まれたことが

わかっています。

 

京都水盆。

 

琵琶湖に匹敵する膨大な量の水が溜まり

湿地帯で人が住めなかった古代の京都に

大運河を穿ち、水を流して、都の礎が

築かれました。

 

堀川は今は小川ですが、かつては

大運河でした。

 

古代の祇園祭は、

祇園の町自体が江戸時代になってから

つくられたので、

祇園祭という呼び方ではなかったはずですが

ともかく、7月24日が本祭りで

各地から船がでて

烏丸御池に集まり、(池ですから)

堀川を下り、翌25日は、大阪渡邊の沖に

大艦隊が集結、勇壮な艦隊機動が

繰り広げられていました。

 

鴨川は、今日でも計算されつくした

理想的な川幅、傾斜で、綺麗に敷き詰められた

砂利の上をさざれ流れ、浄化された河川水が

地下に染み込み、京都中、どこを掘っても

おいしい井戸水がのめる巨大な水道システムを

構成しています。

かつては、今日の烏丸御池を中心に、巨大な

人工湖があり、今となっては、端っこだけ神泉苑として

残っていますが、水圧をかけ、地下水脈の流れを

つくっていたとされています。

 

平安京遷都は、京都に謎の都がつくられてから

ずいぶんと後になって行われたものです。

すでに、東山から、山の手に相当する油小路や

東洞院通りなど、非常に古くからあったエリアには

もう都があったため、当初は、

もっと西、低地になるため

湿気が高い太秦を中心に

平安京の中心部がつくられました。

今日の御所は、江戸時代に

造営されたものです。

 

 

古代日本

もっとも輝ける4~5世紀

なぜ、書かれた歴史は沈黙するのでしょうか。

 

日本に世界最大の古墳がつくられた時代なんて

どんなだったろうか、と、知りたいじゃないですか。

 

ところが、書いてあるものが

なかなか見つからない、、、

 

 

一応、6世紀のはじめ、513年に

はじめて日本に漢字が伝わった、

とされています。

伝えた人の巨大な石棺がみつかり

神社が建てられたのですが

私の実家から歩いて1分ほどのところです。

町の名前も1500年間、大仁(だいにん)と

呼ばれてきました。 つい50年ほど前に

大淀になってしまいます。

 

日本にはとっくに文字があったのですが

書かれた歴史は、6世紀になるまで

日本に文字がなかった、とし、

だから、なあんにも書かれたものが

ないんだ、と教えられました。

 

ほう 。。。。

 

じゃ、つまり、仁徳天皇もそうですが

神武天皇にいたっては、生きていた時には

名前は「音(オン)」だけで、死んでから

何百年も経って、はい、こういう字を

あてますね、とやったんだ、と

認めるわけ 。。。

 

もちろん、天皇の称号は死後、きめられたわけですが

普通、死後、ほどなくでしょう。

何百年とういうのは無理がありますねえ。

 

すごい記憶力ですね。

亡くなって何百年も経った人のことを

みんなで思いだしだし、ええと、そうだ

「ジンム」さんだった、たしかそういう人が

いたんだった、と口伝をたどりながら

日本書紀を書いた、そういうことに

なりますね。

 

513年まで日本に文字がなかった

じゃ、どうやって708年とか

720年に編纂とされる

記紀は、何百年も前の文字のなかった

時代の記録を記すことができたのか、、、、

 

つまり実際のところ、後からつくった話ですと

堂々と認めているわけです。

 

もっとも、ゼロからつくりあげた

素晴らしい文学作品なのではなく

実在していたはずの歴史書をネタに

書かれ、都合よく編集し、

種本の方は焼いてしまった、ということの

ようですが。

 

子供だからって、なめてますね。

こういう歴史つくりばなしを

学校で日本史として教えてはいけないですよね。

 

 

 

さて、漢字で歴史を書いてしまった人々は

当初は圧勝でした。

どこの誰が何をやろうと、

「自分たちがやりました」と歴史書を

書いてしまえば、後世、そういう話に

なっていきます。

日本書紀も書かれてから

百年伏され、書かれた当時、生きていた人が

いなくなってから公開されたと

されています。

 

ところが、本当のことを書く人もでてきます。

 

歴史編纂を独占するため、

徹底した焚書抗儒が行われます。

これは、洋の東西を問わず

どこでも行われます。

 

日本書紀編纂時にも

強烈なことが断行されたのですが

あまりにひどい話なので

書くのはやめておきます。

 

 

さて、これをやりすぎると

新たな問題がふいてでます。

 

「君、それは文献で確認できるのか」

 

よく使われる言葉です。

あくまで、書かれた歴史が正しい

それも正史というのが一つだけあって

あとは偽書だ。

さらに「中国の文献」は正しい、

朝鮮や日本の文献はいい加減だ、

こういう風潮が目立っていました。

 

文字がなかったはずの

邪馬台国の時代のお話は

魏志倭人伝という「中国」の

歴史書に書かれているから

だから正しい、と。

(魏は倭人が

つくった国であると

冒頭に書かれている書ですが)

 

では、4~5世紀日本の輝ける歴史は

中国の文献とやらでは、何と書いて

あるのでしょうか。

 

これがなかなかないそうです。

 

五胡十六国時代とされ

遊牧民が跋扈したと

していますが、中国大陸に

成立した国の大半は

隋や唐、清など、みな

遊牧民の王朝です。

この時代に限ったことでは

ありません。

 

三国志に登場する

魏、蜀、呉は

4~5世紀より

前の時代に相当しますが

日本人がイメージする

三国志というのは

「三国志縁起」という

せいぜい、200年ほど前に

書かれた「歴史小説」に過ぎません。

あの有名な物語は、あくまで

「小説」なのです。

 

つまり大陸は大陸で

かなりいい加減な

歴史だということですが

この時代、何が問題とされたかというと

「正しい中国の文献によって日本国家の

存在を証明できない」 ということです。

 

文献なきところに歴史なしと

決めつけてしまった上に

焚書坑儒をやりすぎた結果

国家の存在の証拠がなくなって

しまったのです。

 

 

そこで俄然、注目されたのが

好太王碑の碑文です。

 

ここに、まさにこの時代

 

高句麗軍が倭人と戦った

 

そう記されています。

 

 

 

東アジア最強を謳われた高句麗軍団

 

隋の大軍113万をほぼ壊滅させ

隋を滅亡に追い込み、唐の大軍も

撃破し、唐の初代皇帝が討死という

圧倒的な強さを誇った高句麗軍団ですが

好太王時代というのは、隋や唐の

軍勢を破った時代より

はるかに隆盛を極めた最盛期です。

 

その高句麗軍団と倭人が戦った記録、、、

好太王碑の碑文は、満州に進出した

関東軍によって、徹底的に研究されました。

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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