このブログはリンパ球バンク株式会社の社長時代に、会社社長ブログとして会社HP上に掲載されていたものです。ちょうど還暦を迎えるタイミングで社長の責を後任に譲り一時は閉鎖しておりましたが、再開を望まれる方もいらっしゃるため、別途個人ブログとして再掲載するものです。ANK療法という特定のがん治療に関しては、同法の普及のために設立されたリンパ球バンク株式会社のHPをご覧ください。
本ブログは、あまり標準的ではない特殊な治療の普及にあたり、「常識の壁」を破るために、特に分野は特定せずに書かれたものです。「常識とは、ある特定の組織・勢力の都合により強力に流布されて定着したからこそ、常識化した不真実であることが多い」という前提で書かれています。
TOP > 日本人の魂 (2)
(前回からの続き)
できれば、前回から続けてお読みください。
さて、「表の歴史」 が伝えるところの
「大倭(ヤマト)」軍による、「日本」侵攻作戦は
どのようなものだったのでしょうか。
水軍で攻め込んだ、ということになっています。
日本海を艦隊が北上した、とされています。
まさに、「日本の海」日本海を進撃したのです。
ヤマト側の総司令官は、阿倍比羅夫 (あべのひらふ)
という人物ということで、古代史にはよく登場する
有力氏族の名です。
この人物が、「越(こし)」の国と「日本」を平定した
ことになっています。
越の国とは、名前の通り、「越」前、「越」中、能登、「越」後、、、
今日の北陸~中部日本海地方、さらには、秋田の一部辺りまで
ということのようです。
古代から海上交通が栄え、江戸時代に入っても
「北廻船」が経済の大動脈でした。
なぜ、大坂と江戸を結ぶのに東海道沖ではなく
わざわざ日本海側から青森に出て商品を
運んだのか、子供心に疑問でしたが、
せいぜい、明治維新より前まで
日本海側がずっと、
日本(現代の日本、ややこしいですね)
の経済の中心地帯だったのです。
で、「日本」とは、津軽の国の国号でした。
津軽といっても、青森県よりずっと広い地域を指し
岩手県に、秋田の一部も津軽でした。
坂上田村麻呂が作らせたという伝説が残る
「ここが日本の中心」と書かれた石碑は
今日でも、青森県と岩手県の県境付近に
立っています。
さて、「表の歴史」によると
安部比羅夫が、越の国と、津軽の国「日本」を
平定し、ここにめでたく、三国統一がなり
新しい国の国号を「日本」とした、
という流れになっているのです。
なお、この時点で、統一三国とは
おおむね、青森~鹿児島 です。
どのような激戦が展開されたのかというと
北海道に進出していた大陸系の遊牧民と
戦闘する記述はよくあり、
越の国との戦闘記録もでてきますが
「日本」については、
宴会を開き、いや、これからは、
共にやっていきましょう、と
そういう記述が目につきます。
そして、安部比羅夫は自らの名を
日本(津軽)の長(おさ)達に与え
以後、それまでの日本、
つまり統一三国の中で
後々、京の都からみれば鬼門(東北)にあたる
東北地方と呼ばれるようになる地域は
安部氏が統べることになった
とされています。
ふつう、勝った方が、負けた方に
名前を与える、そういうもんだと思いますし
実際、表の歴史においても
一族の名前については、
そうなっています。
ところが、国号については
負けた側の国号「日本」が
統一国家の新しい国号と
なった、そういうことになっているのです。
といっても、各資料は、断片しか伝えず
矛盾も多く、また、現代の概念で
何月何日付けで、「講和条約」を
締結する、というわけではありません。
本当のところはどうだったのか
すっきりしたストーリーにはなっていません。
「表の歴史」は、権力を掌握した勢力が
後から、都合よく書いてしまうのが世の常です。
それでも、 ヤマト だったのが、日本 に 化けた
これは動かしようがない事実であり
また、基本的に、
古事記はヤマト、日本書紀は日本と
称しています。
また、津軽の国号が日本であったことも
最近では、時々、TV番組でも紹介されるように
なってきました。
学校で習った「日本史」では
まず、縄文という未開なひとたちが
住んでいた日本列島に
弥生という進んだ文明をもったひとたちが
やってきた、こういう話になっておりましたが
縄文文明が如何に先進的であったかは
今日では、かなり知られるようになってきました。
縄文についての最新の研究成果が
次々に公表されるようになってきましたが
一方で、弥生については、意外に
どういうひとたちであったか、
あまり多くを語られていません。
これには、弥生人は、「人食い」であったという
タブーもかかわっているようです。
また、当然、ふつうに考えれば
倭人は、弥生だったはずですが
実は、こちらのほうが、よっぽど野蛮人だった
というのは、表の歴史上、何かと都合が
悪いようです。
ところが、学校で習った大和朝廷と蝦夷の戦いは
野蛮なひとたちの「反乱」だったというイメージは
まだまだ払拭されていないようです。
ようやく最近になって、
実は、蝦夷こそ「日本」であった
という事実が、少しずつメディアにも
登場するようになってきました。
さて、免疫細胞ではなく、歴史の話ですので
つまり、本当の事実は、よくわからないもの
という大前提の上で、敢えて推測も交えて、
シンプルに書かせていただきますと
どう考えても、「倭」より 「日本」の方が
美しく、恰好よかったのです。
だから国号も「日本」にし
歴史書も、「倭書記」ではなく
「日本書紀」にしちゃったのです。
権力を掌握した倭人は、自分たちの歴史を
うやむやにし、まさに日本人の魂かがやく
蝦夷たち、こういう言い方も倭人の言い方ですが
真の日本人たちに憧れ、怖れを抱き
高度な文明とすぐれた金属工業をわが物にせんとし
徹底して侵略を繰り返し、戦争を望まぬ真の日本人の
土地と幸せを奪っていったのです。
当然、表の歴史は、事実をうやむやにするほかは
なかったのです。
次回以降、倭人の正体、、、、 これはおぞましい話になるので、、、、
どこまで書いたものか、、、 やめておくか、、、、
私たちの心に宿る美しい蝦夷と呼ばれた日本人の魂、、、
の話か、日本統一の時期の国際情勢など、
続きをどうするか、これから考えます 。。。
(続く)