2010.5.4.
化学療法剤を開発したのは米国ですが、
時と場は、第二次大戦中のポーランドという
非常に複雑で、異常な状況の中でした。
その全てはとても語ることはできませんが、
今回の、ポーランド大統領カチンスキー氏以下、
同国首脳陣を乗せた専用機が「墜落」した事件につき
ポーランドで繰り返されてきた歴史の一端を振り返ります
1939年 ドイツ軍がポーランドへ侵攻します
少し間をおいて、ドイツの実質的な同盟国、ソ連軍も
ポーランドへ侵攻、両軍は、衝突することなく、事前に
線引きされた分割線でピタリと進撃をやめ、「平和」のうちに
分割占領体制へと移行します。
もちろん、勇猛果敢なポーランド軍は徹底抗戦しますが、
かつてヨーロッパの雄と言われたポーランド騎士団も
機関銃を搭載した戦車に槍をもった槍騎兵が突撃したのですから
的になるようなものです。 かつてのワールシュタットの戦い(死体の町)では、
モンゴル軽騎兵の前に、共に枕を並べたかつての盟友ドイツ軍も
また、そのモンゴル帝国の継承国家「ロシア」も、いずれも近代兵器を
装備して攻め込んできたのです。
この時、ドイツ軍の装備は二系統ありました。
一つはチェコ製の戦車と大砲。
もう一つは、スターリンの贈り物、つまり
ソ連製の兵器だったのですが、これは次回に。
チェコ製の兵器は、英首相チェンバレンの贈り物と言われています。
詳細は省略しますが、チェンバレンがチェコの意向を無視し
当時の先進工業国であったチェコの中核産業地帯
ズデーデン地方を、勝手にドイツに割譲したのです。
これで戦争の危険は回避されたのである、と、
チェンバレン首相にノーベル平和賞を授与する
運動が起こりました。
(同姓の英外相がノーベル平和賞を
受賞していますが首相とは兄弟であって、別人物です。
ドイツは、ベルサイユ条約により、再軍備を禁止されていましたが、
チェンバレンの贈り物により、喉から手が出るほど欲しかったチェコ製の
野戦重砲が手に入り、また、世界最高性能の軽戦車プラガ38Tをゲットし、
この戦車は改造を重ねながら、終戦まで活躍を続けます。
ズデーデン地方併合が1938年
つまり、英国のおかげで、翌年、ポーランドに攻め込むことができたのです。
ポーランド侵攻後、英国は直ちに、ドイツに宣戦布告。
これをもって第二次世界大戦が始まった、とされます。
ポーランドが侵略されても、大戦が始まったとは言わないのです。
また、同じポーランドに攻め込んだのに、ソ連には宣戦布告しないのです。
英国内にも、大陸のことに干渉しないか、宣戦布告するなら独ソ両国に
対してやるべきだ、という世論もありました。
米国はというと、そもそも、ドイツの指導者を英雄とたたえ、惜しみない
支援をしていたのです。 イラクの指導者や、アルカイダの指導者を英雄として
育てていたのと同じパターンです。 むしろ、ソ連という共産圏から西側を
守る盾なのである、特に戦後の混乱から経済を立て直したドイツ指導者の
手腕は見事である、と、褒め称え、米国上流階級は、ドイツの政権政党と
親交を深めていたのです。 当然、ドイツとソ連がポーランドへ攻め込んだからと
いって、ドイツを本気で非難するなど考えられません。
当時、米国は、ドイツを支え続けていました。
中立国スペインを経由した、ドイツへの石油供給、
ドイツ国内にある米国企業による、ドイツ軍のための、トラックや爆弾の製造供給
ちなみに、ドイツの指導者の演説を放送するPAシステムや、
TVシステムも、米国が供給したものです。
スペインは中立なのですから、戦争中であっても、スペインを経由すれば、
戦争当事国同士が貿易することができ、実際、盛んに行われていました。
戦争する相手と貿易する、これはヨーロッパでは不思議なことではありません。
米国は、独ソ両軍のポーランド侵攻のドサクサに際し、
二つのことをやってのけます。
一つは、ポーランドの有能な科学者3名を亡命させ、
彼らを中心に「マンハッタン秘密計画」を推進させます。
ポーランドの智恵により、原子爆弾の開発が本格化します。
もう一つは、ポーランド国内で化学療法剤の研究拠点を
確保する、という離れ業をやってのけます。
今でも、米国が勝手に米国の敵なんだと「疑ってしまう」だけで
世界中、どこにいても、一般人を逮捕してしまう、
という「離れ業」が行われています。
テロ対策だからしょうがない、と国連が認めてしまったので、
米国は「国際的に正しい」のである、と主張しています。
ところが、米国内では、証拠もなく、疑うだけで勝手に一般人を
逮捕するのは連邦法違反なので、米国内で拘束することができません。
何と、最近まで、キューバとシリアにある刑務所まで、これはと思っただけの
一般人を連行しては、拷問していたのです。
シリアの刑務所は今もあります。
どっちも、「悪い国」と非難しまくっていながら、
ちゃっかり、利用しているのです。
もちろん、キューバは、グァンタナモにある米軍基地の中ですから
キューバにしてみれば、米国が勝手にやったこと、なんですが、
シリアについては、両国の合意に基いてやってるのです。
道徳観念に一切捉われず、国際舞台において、
こういう難易度の高い技を決めることにかけては、
米国の右に出る国はいないでしょう。
さて、英国はポーランドを支援すると称し、輸送機や爆撃機を飛ばして
武器・弾薬・食料を空中投下します。 ドイツ空軍は全く迎撃しません。
この両国、大戦中、お互い何度も、「攻撃できるのにしない」蜜月な関係を
見せ付けます。 パレスチナに至っては、両国首脳陣が一緒に仲良く訪問し、
戦後の、ある民族の入植計画について相談しているのです。
ポーランド戦の時も、ドイツ空軍の保護の下、英国機は安全にポーランドに
物資を投下し、当然ながら、制圧されたポーランド軍は物資を回収できず
殆どがドイツ軍への「補給」となります。
こういうのを、「ヨーロッパコンセンサス」というのですが、日本の常識は
全く通用しない、ある世界観に基いて行動するのです。
ドイツと英国、二つの国が戦争した、と思ったら、大間違いで、
そういう表面的な物の見方では、全く説明のつかない
奇妙なことだらけなのです。
英国は、ジェントルマン精神を発揮し、ポーランド人の亡命を受け容れます。
戦後、ポーランド国家再建のリーダーとなるべき人々です。
彼らは、とても親切にされ、十分な訓練を受け、特に有能な人達を集めて
「ポーランド空挺旅団」という非常に強力な戦闘集団を編成します。
もっと有能な人材はパイロットとして英本土航空決戦に投入され、
「もし生き残れば、それだけで英雄になれるような、華々しい戦場」
に優先的に投入され、殆どがドイツ戦闘機によって撃墜されています。
空挺部隊はどこの国でも精鋭集団です。
大戦末期、オランダの主要な橋5つ全てを空挺部隊で奇襲して
奪取し、一気にドイツ本国へ戦車部隊が、
なだれ込むという「マーケットガーデン作戦」が企画されました。
映画「遠すぎた橋」でも有名になります。
米、英の精鋭空挺師団と、ポーランド空挺旅団、これら最精鋭部隊が
全て投入されます。 作戦指揮官は飛行機酔いに弱い人で、作戦中、
全く指令を出せなかったぐらいですから、最初から、成功させる気はなかったのです。
作戦は予定通り、失敗し、5つの橋のうち、どう考えても最初から無理が
あった橋だけは落ちません。
重い装備も車輌もなく、手提げの軽装備だけで
歩いて行動する空挺部隊は奇襲が原則です。
ところがポーランド空挺旅団は、
空挺作戦としてはあり得ない地点に降下させられ、
夜中に、ロープを張るだけで大河を渡り、
濡れ鼠で「遠すぎた橋」目指して行軍します。
夜が明け、消耗しきった彼らが見たものは最悪の景色でした。
「ドイツ親衛第一機甲師団」の重戦車がズラリと砲口を揃えています。
「地上では最強」を謳われた最精鋭部隊が待ち構えていたのです。
超エリート部隊です。
勇敢なポーランド軍は、最後まで抵抗し、そして、蒸発します。
英軍司令官モンゴメリー将軍は、後日、なんで、最精鋭部隊の前に
重装備をもたない空挺を降下させたのか、と質問され、あそこに
あんな精鋭部隊がいたんだね、「知らなかったんだ」
こうして、ドイツに攻め込まれ、米英に「保護」された戦後ポーランドを
担うべきリーダーたちは、無事、生きてポーランドに戻ることはありませんでした。
では、ソ連占領下にあった、ポーランドのリーダー達はどうなったのでしょう。
その行き先が、「カチンの森」 今回、ポーランド、カチンスキー大統領以下、
国のリーダー達が、ロシアの警告を無視して強行着陸を試みてまで
訪問しようとした場所です。
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