2009.1.4.


信長、秀吉、家康、この三人に共通していたこととして、
ヨーロッパ列強の動向にアンテナを張り、その対策を
戦略決定の軸としたことがあげられます。

隣の村や、豪族、あるいは身内に、いつ寝首をかかれるか、
目先の問題の山に、明け暮れる日々、そんな戦国の
状況にあって、世界戦略を見据えている、というのは、
それだけで、他とは、次元を異にしています。 
目先の問題に拘る人々に、天意は味方しません。
また、細かく見ると、この三人、何度も負けていたり、
敵がもう少し粘ったらアウト、という状況を潜り抜けて
います。 スケールの大きなヴィジョン、
戦いの後の国創りの構想や、
時の流れを感じた相手のトップや幹部が、こいつらとは
組んだ方がいい、と判断するからこそ、目先の敗北を乗り越え、
相手を取り込み、昨日までの敵と大きな連合体を作り上げられるのです。

さて、日本の戦国時代、ヨーロッパでは、
イスパニア王国が誕生していました。
当時のイザベラ女王の居城へ行ったことがあるのですが、
丘の上のちょっとした砦のようなものです。
領土カスティーリャも小さな県みたいなものです。
イザベラ女王が世界戦略を練りながら眺めたのであろう景色を、
同じ王室跡から眺めると、確かに、世界を捉え、広大な領土を
狙う野心が沸いてくる感じがします。

小国イスパニア誕生からまもなく、1492年、大事件が発生します。

: ヨーロッパにおけるイスラム最後の拠点グラナダが、
  イザベラ女王軍によって陥落します。
: イザベラ女王から資金提供を受けたイタリア系ユダヤ人コロンブスが
  西インド諸島を「発見」します。(ヨーロッパからみて、発見という意味です)
: イスパニア・ポルトガルにおいて、ユダヤ追放令が発布されます。 
  追放された人々は、オランダとイングランドに移り、次の君主を準備し、
  また、後に、イエズス会を立ち上げます。
  (この丁度500年後、1992年 バルセロナ、モン・ジュイックの丘、
   つまり「ユダヤ山」をメーン会場にバルセロナ五輪が開催されます)

1534年 6月23日 信長生誕
  同 年 8月15日 パリ、モンマルトルの丘で、イエズス会結成

1543年 種子島に鉄砲が伝来
      この年、イスパニア王フィリッペ二世が結婚


さて、日本の戦国の雄である三人にとって、最大の関心事は、
何故、イスパニアやポルトガルは、本国自体は小さく、
人口も大したことないのに、広大な世界を支配できるのか、
この点につきます。
その鍵は、イエズス会をはじめとする修道会にある、と
にらんでいました。 

前にもこのブログに登場しましたメディチ家を滅ぼした、
とされる、イグナティウス・ロヨラや、フランシスコ・ザビエルらが、
設立したイエズス会。 信長が偵察に派遣した使節団をローマで
出迎えたのがメディチ家でした。

ところで、この時代、修道士は、たった一人で、
彼らの言う「未開の地」へ赴き、言葉も通じない
異教の地で、神の御心を伝え、教会の一つでも
建てれば、「神に選ばれし者」、神を表す「El : エル」と、
やはり神を意味する「it : イット」とで、El+it = Elit
つまり、「エリート」と呼ばれました。
日本では、一流大学に合格して、
官庁や一流企業に勤めればエリート
呼ばわりした時代がありましたが、
元々は、そんな生易しい意味ではなかったのです。

大河ドラマに修道士が出てきても、「全能の神ゼウスは、、」
と言ってますね。 イエズス会なのに、イエスとは言わないのです。
諸説あるのですが、イエズス会は、イエスを十字架にかけた側、
ジェダイの騎士団の流れを汲む組織、という説もあります。

信者を集め、布教と称して全国に散っていく信者から情報を集め、
対立する諸勢力の双方に銃と弾薬を供給し、内乱を扇動する。
こうして、相手国を内部から崩壊させ、僅かの手勢で植民地と
していくのです。 ところで、武器弾薬の代金の回収は
どうするのでしょうか。 本部から、布教の販促グッズとして、
銃や弾薬をもらってきているのではありません。
貿易によって自分で経費を稼ぐのです。
武器弾薬の対価として、奴隷を受け取り、荒稼ぎします。
かつての奴隷貿易の中継地ザンジバル島には、
つい最近まで、当時、売られてしまった日本女性の
子孫が、この時代になってもなお、
日本語を忘れず、戦国時代の歌を、語り伝えていました。

なお、当時の軍隊式イエズス会と、あとから日本を再訪し、
今も日本にいるイエズス会とは、中身はまるで違います。
イグナシオ教会(イエズス会創設者の名前)で挙式をした
人もいらっしゃるでしょうが、別に、とんでもないところで
やってしまったの? と、考える必要はありませんので誤解なく。


信長の時代は、イスパニアも足元固めに必死の時です。
カリブ海や南米の植民地政策は
「進展」(彼らから一方的に見ればですが)していましたが、
穏やかな中部大西洋を、外洋輸送用帆船のカラック船で交易するのと、
内海の地中海において、手漕ぎのガレー戦で戦闘を行うのとは、
訳が違います。 当時は、強力なガレー船部隊を擁する
オスマン帝国が、地中海全域、つまりイスパニアの喉元の海の
制海権を握っていました。

信長にすれば、まだまだイスパニアがたちどころに
日本まで攻めてくる状況ではなかったのです。 

1571年 オスマントルコの大艦隊300隻のガレー船がギリシア沖に
押し寄せます。 迎え撃つローマ教皇、ヴェネチア、イスパニアなど
ヨーロッパ連合艦隊。 ヴェネチア軍の、巨艦ガレアス戦艦6隻が、
圧倒的な火力で、オスマン艦隊を散らします。 ただし、この戦艦は
装甲といっても、木製の板をはりつけたものでした。 この海戦に勝利
したヨーロッパ勢は、やっとこ西地中海の制海権を掌握します。


それから5年後、1576年

今度は、信長側の艦隊が、大阪湾で、毛利方、
村上水軍の大艦隊、ガレー船ではありませんが、
木板で装甲された戦闘室を持つ内海用手漕ぎ戦闘艦の群れと戦い、
火力攻撃に圧倒され、全滅します。

更にその2年後、1578年

再び侵攻してきた村上水軍600隻の大艦隊に対し、
信長側の九鬼水軍は鉄鋼製の装甲を施した巨艦6隻をもって
艦砲射撃を浴びせ、村上水軍の主力艦を撃破、遁走させます。 

洋の東西で、ライバル同士、同じ内海で、
似たようなことをやっていたわけです。
どちらも、大型艦6隻が巨砲を放ったのですが、
日本の戦艦は、世界で初めて、鋼鉄の装甲をもつものでした。
信長は、もちろん、この戦艦部隊を、宣教師にも見せ付けます、
「どや、これが日本の実力や、日本相手に戦など、
 アホなこと考えん方がええで」、と。 
実は、レパントの海戦の情報を入手した信長は、
同じ数、同じスタイルの戦艦で、更にヨーロッパを
上回る技術を駆使したのです、、、、 か、どうかは知りません。
(でも、レパントの海戦のことは知っていたでしょう、、、)


信長の時代は、まだまだイスパニア勢力と
表面的友好を保ちながら
相手の状況を探る時期でした。

1581年 本能寺の変
1588年 アルマダの戦い 

  : イングランドを除く、ヨーロッパのほぼ全域を領する、
    陽の沈まない帝国ハプスブルク家。
    その盟主、イスパニアのフィリッペ二世。
    短期間で「県」が全ヨーロッパになってしまいました。
    ところが、オランダで反乱が発生、
    更に、イングランドのエリザベス女王が海賊に
    私掠許可証(海賊行為を承認する許可証)を発行、
    ドレーク提督以下、名うての海賊達にイスパニア領を犯させます。
    ちなにみ、世界史の教科書には、スペイン無敵艦隊、
    イギリス海軍に敗れる、と書いてありましたが、
    イギリス海軍などというものは存在しません。
    いるのは、海賊だけです。
    映画「パイレーツオブカリビアン」に登場する東インド会社の
    私設艦隊が活躍するのも、まだ先の話です。 
    対抗策として、ベルギーなどから寄せ集めた船に、
    イスパニアの陸上部隊を無理矢理乗せた、
    でき合わせ艦隊が、イングランドを目指しました。
    ところが、荒れる北大西洋。 使い慣れない
    外洋戦闘艦ガレオン戦艦の操艦が難しく、
    殆どが遭難し、自滅します。 
    何故かこれを、アルマダの戦い「無敵艦隊の敗北」と称します。  
    実際には、この戦いの後、フィリッペ二世は
    強力なガレオン戦艦部隊を編成し、
    世界最大の外洋戦力として
    覇権を拡大していきます。